北陸大学教職員組合ニュース168

  

  今号では、組合に寄せられた2通の投書をご紹介します。

 

精神の衰退を憂える(投稿)

 

 2月8日、法学部教授会は教授のみによって、30回の授業のうち3回の担当をした者が最終評価することを許容する議決をした。このことが如何なる意味をもつかは多言を要しまい。法的に可能かどうかは問題ではない。評価を受ける側からすれば、自分がなぜ優のなか、良なのか、可なのか、あるいは不可なのかまったく理解できないだろう。たとえ優をもらったにしても釈然としないはずだ。信頼するにたる評価基準云々以前に、学期始めから自分が学んだ授業の評価が消えてしまうからだ。このような評価を拒否して、27回分完全ではないにしろ学んできたことに対する評価をしてほしいという要求をする学生が現われたなら、法学部教授会は何と答えるのだろう。「教授会で決まったことだから」?教授会はオールマイティーではない。道理に合わないことを決めてはならない。その結果は学生が苦しむだけだろう。

 思えば5年前、教員の80%が教学の主体的な運営を求めて「学長公選」を要求した。学長候補選出に関しては教員側からみて必ずしも望ましい規程にならなかったが、50%以上の支持で学部長候補を選出できることでよしとした。いつまでもベストなものを求めて不安定でいるより、そのように選出された学部長の下で教学の道理に合った学部意思というものを形成しつつ、学部の教育・研究を現実に少しでも前進させようと考えたからである。我々はそれがまた学校教育法に定める教授会の存在の意味と考えた。3年にわたったいろいろな場面での署名や粘り強い議論。多くの人々の労苦と犠牲によって北陸大教授会はおそらく教育基本法および学校教育法、おそらくは建学の精神の意味でも、幾ばくか再生した。

だが、その教授会が少し怪しくなってきている。こう感じるのは筆者だけではないであろう。学部意思は決して教授だけの意思によるものではない。種々の署名を含め、教学の道理に合った学部意思を形成するための環境を作る運動に参加した教員はそう考えたことだろう。しかしながら、今次の法学部における意思形成は、確かに教授会規程には形式的に沿うものだが、恣意的に排他的な仕方で形成されたと言わざるをえない。初谷氏を非難するのはいいだろう。非難されるところがあるならそれは仕方がないことだ。しかし、今回の事件で見えてくるのは、理事会が無理な決定をし、学部長事務取扱を始めとし教授たちができるだけ議論を回避しながらしゃにむに理事会の決定に合う形を整えようとしているという構図だ。このことによって、どう判断しどう行動すればよいのか真剣に苦悩する学生だけでなく、法学部発足以来の良い伝統も傷つこうとしている。これは長期的に見れば学部運営・教育にとって大きなマイナスになるだろう。相互の信頼が、何よりも教授会・教員に対する学生の信頼が失われようとしているからである。

そもそも、今回の(異常)事態の全体をふりかえるとき、そこには大学らしい道理が少しも見られない。理事会の最近の説明からは「日本刀事件」が(多分意図的に)抜け落ちているが、12月の中川専務の説明によればそれが1222日付け退職の直接の理由だったはずだ。退職願いや割愛願いはそれを可能にしたにすぎない。情報が乱れ飛んでいるので正確でない部分もあるかもしれないが、日本刀は北元理事長と初谷氏の会見の場で新渡部稲造の武士道の話が出たついでに披露されたという。人間国宝の手になる名刀で、銘を「不動心」というそうだ。それが初谷氏に身の危険を感じさせたかどうかは今は問わない。言いたいことは、その後の経過が新渡部の考えた武士道の精神とまったくかけ離れているということだ。

 新渡部の武士道についての論文は、前々世紀末に英文で出版され、矢内原忠雄によって和訳された。日本の精神性の最良の伝統に属する書である。新渡戸はこの書で自分のモラルのよって立つ根拠を省察しようとして、自己の精神の血肉となっている武士道に眼を向けた。キリスト教精神と融合した騎士道と比較しながら、東洋思想との関わりから武士道の神髄を見極めようとした。そこで主題になっているのは「義」といい、「敢為」といい、あるいは「仁」といい、要するに悲劇的香気を秘めた人間精神の高貴である。彼は武士道を武士から峻別し、そこに桜の花に通じる美しさを見ようとしている。

 筆者の読んだ版ではいわゆる「武士の魂」といったような刀の話は出てこないが、「真剣」はおそらく思想のリアリティに関わるだろう。そして、それが武士道の神髄の物的シンボルであるとすれば、それは単なる美術品ではない。まして気軽に人前で抜き放つような代物でもない。それはそれを所持することの意味を絶えず無言の内に問いかける種類の物に思える。それゆえ、新渡部の武士道観からいっても、」真剣」を所持することの意味からいっても、その後の経過は武士道精神と決して符号するものではない。そうすると、何のために披露したのか、ということになる。河島学長も同席したという会見の場でどのような武士道談義が交わされたのか知る由もないが、もしそれが好意から発したとしても、結果として好意が仇になったとしか言いようがない。何ゆえにそうなったのか?いずれにしても、それが好意から発したものとすればますます皮肉なことだ。

 さらに、金沢地裁決定のその後の扱い。これを見て昔読んだ「ベニスの商人」が思い出された。「肉1ポンドはおまえの物だ。だが、かっきり1ポンドの肉だけだ。血の一滴も流すことは許さん」−「教授の地位はおまえのものだ。だが、地位だけだ。授業も学内立入も絶対に許さん」。数百年前の喜劇が21世紀の世に現実に起きているのだ。シャイロックは他からの忠告に全く耳を傾けず、ひたすら法の正義を求める。何のために?「宿怨からだ。何としても虫が好かぬ」。北陸大学の喜劇では誰がシャイロックで誰がアントニオなのか?シェークスピアの喜劇ではポーシァの名判決で人の命と名誉と友情が救われた。大学の授業と名誉を賭けた北陸大の喜劇では一体何が救われるのか?北元理事長の名誉かそれとも初谷氏の名誉か?いずれかの命運か?否応なく喜劇に巻き込まれた教授会と学生に関して言えば、払わされた代価に対して一体何が救われるのか?大学の権威と名誉・評判の失墜以外に何が得られるのだろう。大学と学生にとってこの喜劇は崇高なところの少しもない悲劇以外の何物でもない。

 

 

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北陸大学教職員組合 幹部諸兄に告ぐ

今日の貴学は大学としての形態を成しておらず、唯混乱の極みにある無秩序な集団としか言い様のない体たらくである。何故に度々問題が生じ、世間に訴えるような事態に至るのか、卒業生、在学生またその父兄の立場を考えてのこととは到底信じられない。

素朴な疑問であるが、大学の財産は学生であり、卒業生と父兄であることを忘れ、徒に教職員と理事会が角突き合わせて、学生の教育、学生の心情を踏み躙っていることは、教育を出汁にし、高額の授業料を徴収する瞞かしの営利集団に過ぎず、KSDと何ら変わることのない集団を断じて容認するわけにはいかず、この怒りを知るべきである。

今、一教授の退職のことに端を発し、学生の授業に影響が出ていると聞く。何故残り僅かな期間、望まない退職を強要してまで、卒業を控えた4年生の授業を取り上げなければならない特別の理由が有ったのか。一番の被害者は学生であり、単に被害者として済まされない、生涯消し難い深い心の傷が残ることは避けれない。一般的には、教授が特別の事情があって退職を希望しても、退職の時期に配慮して学生の教育を最優先することが、授業料を前納している学生(父兄)に対する当然の義務であり、大学としての絶対的措置ではないのか。今回の事で図らずも分かったことは、学生を大切にするということは、口先だけの戯言でしかなかったということである。この様なことが何時までも許されると思う程世間は馬鹿ではないことを、理事会、教職員共々何れ思い知る事になるだらう。

ある大手会社で業績不振となった。その原因は経営幹部の独善的経営で,取締役会はイエスマンを揃え、幹部社員も厚遇で白黒を使い分けて役職に安住、労働組合は御用化して経営の施策にノーマークであったとのことである。、

労働組合が徒に先鋭化することの弊害は、一般的に組合、非組合員を問わず組織から遊離して、労働組合としての存在感が気迫になるといわれているが、今回の様な事態が度々起ることに対しては、毅然として問題発生の根源を糾していくことは当然である。寧ろ遅きに過ぎたと思える。

貴学の理事会も仄聞では、超ワンマンの理事長が全てを仕切り、発言、発想イコール決定事項となる独裁経営とのこと。法外の退職強要、日本刀、週刊誌、何れをとっても最高学府の理事長としての品格、識見に欠け、かくも破廉恥な問題を引き起こし、その根本的原因が何処に在るかの見定めも出来ず、性懲りなしに度々大学に紛争を起こすことは、最早

トツブとしての器ではなく、徒の我儘者、増して如何な理由にせよ人に刃を向ける所業はとても常人の為せるものとは思えない。

斯様な人物を長と崇め奉つる理事の面々、教職員の見識の程度が知れるというもの。唯々世間より給料が良い、待遇が良いからとこれを看過して、またまた学生を盾にする卑劣な教職員の見識の程度が知れるというもの、これを看過し、学生の立ち上がりに期待するような態度は、社会、高校等が絶対許さない。少しは高校を見習ったらどうか、児童の減少に合わせ、教育の多様化に懸命に取り組んでいる姿をどう思っているのか。大学は貴学だけではない、教育と学生に対して金を掛ける大学に社会の目が向くのは当たり前のこと。

個人会社で資本家であれば、超ワンマンも事によっては許されるであろうが、大学は国の補助を得ている公益性の高い教育機関で、この運営は公明正大でなければならず、このため理事会の役割が極めて重要で、この理事会が腑抜けであれば、理事のご都合主義で決まり、それも理事会が最高決定機関であると威圧し、学内が仕方がないといっているから現在の低落な問題が発生することになり、これからも必ず再発すること間違いない。今の理事会構成はどうなっているのか、その理事の就任理由は大学に貢献的であるか、単なるイエスマン要員なのか、理事長の御用理事会が最高決定機関であることの弊害は、今回の学生の教育、心情を無視した無法な決定に如実に表れていることを認めなければならない。

忠告する。教職員組合として今回の問題を真摯に取り上げ、非組合の教職員とともに総意を盛り上げて,大学の機関で将来を懸けた重要問題として審議できるよう運動すべきである。その構成も理事長の御用理事会から教職員、学外の有識者等を含め、大学の教育の充実に寄与する重要な審議機関を構成し、貴学の将来を見据えたものであることを、教職員全員が如何に認識するかである。しかし教職員個々人は権力に弱く、何時の時代も懐柔され寝返る人たちがいることも念頭に入れて、組合連動としての狭義の問題から脱皮し、個人攻撃から理事会の適正な在り方を総意で検討するうねりを創ること、その結果として理事会に限らず、国家、政府が総意で権力を打倒した事例は枚挙にいとまがない。

理事長は低報酬、タクシー利用、秘書は一人、大学の教育に経験もしくは定見を持った人格者こそ貴学が必要とするのではないか。

教職員組合は今、視野を高<、広く持ちその真価を発揮する時であることに全エネルギーを投入すべきで、このことが結果として社会、学生に評価されて貴学が発展し、教職員の研究環境、待遇に還元されることになることに理解を深めることである。

突然、不躾な物言いをいたし,深くお詫びをいたします。しかし、卒業生を採用し、彼らが一所懸命に働いてくれる姿を見るにつけ、彼らの母校が度々テレビ、新聞、果ては週間誌に掲載され、理事長が、事もあろうに日本刀の刃を教授に突き付けて退職の話をしたなど、彼らの心境はどんなものか、理事長以下関係者は分かっているのか、怒鳴り付けたくなる気持ちをここにぶっけた。本来なら教職員組合に物申すことではないことは百も承知しているが、期待出来るのは教職員組合しかないと思ったもので、ご迷惑なら聞き流しの程お願いする。