北陸大学教職員組合ニュース206号(2004.01.21発行)




学長・学部長の任用規程改悪反対!!!

「協働関係」の確立こそが大学再生の道



今、北陸大学未来創造学部のコマーシャルは巷に溢れている。学生募集は死活問題であり、なりふりを構っていられない事情は確かに理解できるし、当世、募集の苦労が並大抵のことではないことは想像に難くない。しかし、大学はそれを目にする北陸大学の学生の反応を考えたことがあるだろうか?「会社がもろに出ている」という意味のことを言った学生が少なからずいた。これは「大切にされている」はずの彼らにとって、決して愉快なことではない。それどころか、北陸大学の学生です、と言うのが嫌になってしまうかも知れない。彼らは、学生減とは違った意味での大学としての危機を敏感に感じ取っているのだ。このように書くのは先日、中川専務理事及び河島学長が報告事項として、学長任用規程以下の改正案を説明した際に、学長が「北陸大学は企業だ」と明言したからである。企業は、広辞苑を引くまでもなく営利を目的とする経営体である。学生は大学が企業であることを決して望んでいない。

 今回提案された学長以下の任用規程は、その企業の論理に貫かれている。すべて常任理事会の意思で決まるようになっている。それは候補者の選考方法に止まらず、任期、解任条項、規程そのものの制定権に及んでいる。最後の部分は、規程を寄附行為の下に置くという中川専務の説明からすると、今後常任理事会が制定権を独占することを意味している。そうなれば、将来いかなる事態が生じようとも規程はもはや教学の手の届かないものとなる。結局、提案されている規程の下では、最悪の場合、解任条項によって首根っこを押さえられた学長が「嫌われ役」として有無を言わせないリーダーシップを発揮するという構図が浮かび上がる。この学長のリーダーシップの下で学部長以下教学の指揮命令系統が形成されるのである。これでは、時代の変化を考慮に入れたとしても、”universal” な営為を理想とする大学のあるべき姿からは余りにも遠い。自由な発想も、旺盛な批判精神も存在し得ず、それゆえに未来社会や未来文化を創造する学部・学科像とも矛盾していると言わざるを得ない。しかも、常任理事会の有り様によっては、最悪というのは容易に現実になり得るし、そのとき、一切歯止めになるものがない。

 現行の任用規程は、もとより理想的なものではない。制定過程を度外視すれば、欠点も目に付くかも知れない。しかし、「理事会等と教学組織の協働関係の確立」に始まる文部省の異例の指導まで得て、理事会、教学双方の論理を真剣に摺り合わせたものだ。高々5年前のことである。当然双方に不満は残ったが、教学側は、不毛な対決の繰り返しによる大学の荒廃よりは、大学という機関の現実の仕事、社会的使命を重視した。それは理事会も同じであったと思う。それ以前、当時理事会の意向を代弁した佐々木学長でさえも「理事会と教学の協働関係こそ重要」という見出しの就任挨拶(H9.5.21)を書いて、合意に向けての自己の役割に対する抱負を語り、その中で、「私立大学における法人サイドと教学サイドは、本来、車の両輪のような関係でなければならない」と述べられている。北元理事長も、職員あての方針指示(H9.10.13)で「理事会と教学の協働関係について」と題し、「文部省の指導と理解の下、大学審議会答申(「大学運営の円滑化について」)にある『適任者を事前に数名に絞った上での投票』を指針として、理事会と全学教授会とがその役割に応じて具体的成案を得るべく、更に鋭意検討されることを期待します」と述べられている。現行規程はこれらの過程を経てできたものだ。教員側が、およそ8割の教員による署名とともに学長公選制の要望書を出したのが平成81月、そして、現在の制度ができたのが平成1011月であり、3年近くをかけて作られた。その規程を全く一方的に、理事会だけの判断で葬り去るなどというのがいかに暴挙であるかは多言を要しない。

 中川専務理事は、今回「事情が一変した」ことと「学長の強いリーダーシップ」の必要を改正案の理由に挙げている。しかし、本学におけるこれまでの経験に照らせば、教学側の支持あるいは力無くして、「教学と理事会の接点に立ち、教育・研究の牽引者たるべき学長(H.10.1.19配布、北元理事長名文書)」は存在し得ない。確かに、佐々木学長は教学サイドがその任命過程に反対した学長であったが、教員サイドの力があって初めて、前記のような考えを披瀝することができたのだ。それゆえ、我々は改めて主張する。我々は今回の改正案には反対である。今回の提案は、本学における教学の理事会に対する従属関係を永久化することによって、教学を完全に無力化することを意図するものとみなさざるを得ないからである。権利を奪うことによって使命感,義務感を育てることはできない。大学は活性化とは逆方向に向かうであろう。この規程の下では、教育主体としての教員の教育活動は萎縮せざるを得ない。教育活動が無制約に教員の自主性に任されるものではないことは自明であるが、教育主体の意識なくして教育はおぼつかない。いわゆる「意識改革」も、教育主体の意識喪失ではないはずだ。時計の針を逆転させるようなことは全く無益なことだ。そのようなことよりも、改めて「協働関係」の確立を図り、教学の力を最大限に引き出すことにこそ、大学危機からの再生の道がある。