北陸大学教職員組合ニュース 246 (2007.4.9発行)




今号は、執行委員長の挨拶と、『組合ニュース』に寄せられた投書を掲載します。


委員長就任挨拶 − 訴訟支援へのアピール −

                          執行委員長 林  敬


 2006年度の定期総会で、2回目の執行委員長を仰せつかりました。昨年、委員長をお引き受けしたとき、1年のつもりでした。組合は大きな問題に直面していましたので、長期的に先頭に立って引っ張る人が必要と考えたからです。停年を間近に控えた私にできることはせいぜい繋ぎの役割と思っていました。しかし、もう1年繋ぐことが必要になりました。最大の理由は、現実に二人の組合員が解雇され、委員長として解雇を阻止できなかったことに対する忸怩たる思いと、個人的に、長年一緒に仕事をしてきた誼から、二人の同僚の解雇差し止め訴訟を支援しなければならないからです。

 彼らは、先ず、316日に金沢地裁へ地位保全の仮処分を申し立てました。二人の無念さは、自分のことのようによくわかります。ドイツ語教員として、専門科目の教員として、情熱を持って教育と研究に打ち込んできた25年と14年、人生の中途で、「語学を英米語と中国語に特化する」からそれ以外の語学教員は不要という、経営上か教学上かわからない「方針」により大学を追われることなど夢想もしなかっただろうに、と思うからです。今、外・法学部のあとに「まったく新しい発想」で設置されたという新学部全体の方針が、極めて曖昧になってきた中で、しかも大学全体が危機的になってきたこの時期に、何故、この「特化」だけが突出して、ドイツ語教育以外にも多方面な教育に献身し、業績を積み上げてきた有能な教員が追い出されるのか、私には理解できません。

 定期総会では、解雇通知を出された2教員の訴訟を、経済的な支援も含めて全面的に支援することが決定されました。彼らのために、とてもありがたいことです。しかし、私は、組合の決定以上に個人が支援してくれることを願望します。同僚教員に対する支援活動は、第一義的には彼らのためのものですが、私はこの支援活動が我々自身の連帯を深め、強くすることの核心になると思うからです。

 私は、1年前に、組合は良心のセーフティネットと書きました。一人一人は決して強い人間ばかりではありません。組合は、各自の良心を持ち寄ってお互いの良心を、ひいては大学の教育的良心を守っていくための相互保障と思ったからです。ここ数年、この大学では、各自が自らの自主性を保つために、今まで以上に良心の連帯が必要になってきたように思われます。誓約書、その他様々な形で、事あるごとに無批判な服従を強いられるからです。しかし、大学理事会が「方針」に従えと誓約を求めてくるなら、応じればいいです。誓約は自らの意思で行う厳粛な行為ですが、しかし、強制を感じたとしても、そのことを良心に恥じる必要はありません。正しいことをするな、という方針はあり得ませんから。肝心なのは自分たちがなすべき事、できることをおろそかにしない事です。教員は方針の道具ではありません。私は、同僚教員の支援活動はそのようななすべき事の一つと思います。そのことを恐れる必要はありません。何人も同僚教員の危機に手をさしのべることを非難できないからです。いずれにしても、良心はどのような場合でも最後のよりどころとなるでしょう。

 支援活動を考えていると、いくつかのことが頭に浮かびます。一つは、私たちには、数々の財産があるということです。組合結成以来の改革運動の財産や、教師としての教育の財産などです。1997年の自主選挙の時、法人理事会から教員有志世話人と選挙管理委員に解雇を予示する通告書が発せられました。しかし、信頼できる大勢の仲間の支えがありました。さらに、教員有志はすべてをオープンにする方針をとりました。世間が見守る中で解雇できるなら、解雇してみて下さい、というスタンスでした。果たして、自主選挙は成功裡に実施されましたが、理事会は解雇しきれませんでした。大学法人は、社会正義と良識を敵にすることはできなかったのです。今回も、理事会は分別を失ったような難題を課してきていますが、私は、大勢の皆さんが支えてくれると確信しています。そして、社会正義と良識に訴えたいと思います。私は、それが味方してくれることも確信しています。

 教育の財産について言うと、それは卒業生たちに対する期待です。恩師が、母校が危機に瀕しているとき、どのように手を差し伸べてくれるか、それによって私たちがどのように教育したかが明らかになると思います。私たちは、自分の出身学部が何故教員・卒業生に(在学生にも)説明なくあっさり消滅してしまったか、そして、田村先生とライヒェルト先生がどのように解雇されたか、事実をお知らせして、卒業生の応援を得たいと思います。そして、多くの卒業生がそれに応えくれると思っています。教職員の皆さんは是非、卒業生に母校の様子を知らせて下さい。

 もう一つ頭に浮かぶのは、少々不謹慎かもしれませんが、楽しい想像です。それは、支援活動を通じて、先輩、元同僚たち、教え子たちと再び共通目的を持って出会えるのではないかという期待です。ひょっとすると、大勢の未知の人たちとも出会えるかもしれません。私は、北陸大学が今のようであってはならない、一生懸命研究と教育に打ち込んできた教員をむざむざ追われるままにしてはいけない、という思いを持つ人が少なくないと思うからです。教育は結局人です。人が人を教育します。支援活動を通じて、多くの人が大学とは何か、教育とは何かを考え、北陸大学に、あるいはそれを超えて、新たな何かが生じることを期待してやみません。

 二人の訴訟へのご理解とご支援をお願い致します。



<教員からの投書>


田村教授の解雇に断固抗議し、併せて理事長・学長の退陣を要求する!


 田村教授が一片の解雇通知でもって解雇されようとしている。曰く「貴殿におかれましては、平成19年度以降、ご担当いただく科目がないことが確定いたしておりますので、学校法人就業規則第21条第7号・第9号に基づき、平成19331日付けにて解雇することといたしたく、本書をもってご通知申し上げます」。

 こうした仕打ちが、北陸大学奉職25年の教授に対する、わが北陸大学のやりかたである。そうした解雇の仕方そのものが理事長以下北陸大学のトップの本質を表象している。「人の心の痛みが分かる人間になってほしい」とは、学長が卒業式や入学式の式辞で、必ず口にする一節であるが、今となってはむなしい。この言葉はそのまま学長自身にお返しする。

 片や理事長も、先日の卒業式でも引用し、また常々引用する一節がある。「人間はタフでなければ生きてゆけない、やさしくなければ生きる資格はない」。また、「邂逅と謝恩」は理事長のモットーとされる。

 しかし、両者のこの言葉と勤続25年の教員を正当な理由もなく解雇することは、甚だしい矛盾であると言わねばならない。言葉と人格がこれほど乖離していては、聞いている方はただしらけるばかりである。

 担当科目がないから解雇だという。しかし、今現在、担当科目がないのは田村教授ひとりではない。担当科目が無くても解雇を通告されていない教員もいる。

 こうしたダブルスタンダードは、法人の常用であるから驚くには値しないが、なんともずさんな遣り方にあきれるばかりである。(ダブルスタンダードの例は、未来創造学部とセンターの所属を決める際の基準であり、6年制薬学部へ移行の際の基準である。昇任等の基準でも、年数や業績で基準を満たしている組合員を昇任させず、満たしていない非組合員を昇任させるなど枚挙にいとまなし)。

 田村氏解雇の法人側の理由は、一言で言えば組合つぶしである。現在の北陸大学教職員組合に占める田村氏の存在は大きい。岡野氏が去り、来年度はかつての執行委員長櫻田氏や現執行委員長林氏も定年退職となる。これに田村氏がいなくなれば、法人を批判する教員はほとんどいなくなってしまう。北陸大学の教職員組合はその指導者を失う。

 近年、学長や法人を批判するのはほとんど田村氏一人であった。理事長や法人が消し去ってしまいたい過去の様々なスキャンダル(前理事長退職金3億円問題、功労者特別年金制度、日本刀事件、文部省への虚偽報告等々)を、正確に把握し、それを批判する論理と勇気をもっている教員は田村氏の他にいない。

 田村氏を排除すれば、理事長の独裁体制は完成する。表だった理事長批判は一切なくなるであろう。

 研究者にとって、これからの裁判を戦うことの時間とエネルギーは致命的である。自身の専門的研究は中断を余儀なくされ、研究者生命が絶たれる危険性がある。研究者として円熟の域に達している田村氏にとっては、なんとも悔しい思いであろうし、我々からみてもまことに大きな損失といわねばならない。

 しかし、おそらく田村氏にとって、この戦いは自らの専門領域を守る以上の、研究者としての良心の戦い、また大学の自治と学問の自由を守る歴史的な戦いに自ら参与するといった思いがあるのではなかろうか。

 理事長や学長にとっては自己の権力の維持のための戦いであろうが、田村氏にとっては、自身の地位保全を超えて、歴史的意義を有する戦いという認識があるのではなかろうか。ドイツ語の教師であるとともに、ドイツ戦後補償を専門とする歴史家でもある田村氏にとって、この裁判の歴史的意義を認識しておられるはずである。

 この裁判がどれくらいかかり、どのような結果になるやはわからない。しかし、北陸大学の歴史のみにとどまらず、大学の自治と学問の自由を問う歴史的裁判になるであろう。10年、50年、そして100年の後に、かつて北陸大学という私立大学で独裁的理事長やその操り人形の学長の専横に抗し、研究者の良心にかけて、学問の自由と大学の自治のために戦ったひとりの研究者がいたことが、語り継がれるであろう。

 後世がこの裁判を振り返るたびに、北陸大学の理事長達のスキャンダルの数々と、一研究者の良心が対比的に語られるであろう。

 北陸大学25年間で、田村氏がゼミや授業を通じて数多くの学生に接し、慕われてきたことは周知のことであった。法学部時代の田村氏のゼミは学生に最も人気のあるゼミであったと言われる。現在の太陽が丘キャンパスで、田村氏ほど学生に慕われた教員はいないであろう。

 法人は田村氏を解雇することで、こうした多くの卒業生を裏切ることになり、また同時に、卒業生からの批判にもさらされるであろう。その時、卒業生にどう説明するのか。

 また、田村氏は、大学の近くに居をかまえ、土日といわず研究室に入り浸りの学究であると同時に、自身の専門分野の学問的実践から多くの社会的活動もされている。

 近年では、石川県の小学校や中学校・高校の先生方の教員組合の研究組織である総合研究所(「総研」)の代表を務められ、県内の小中高の先生方にもその名は知られている。

 田村氏解雇は、そうした県内の小中高の先生方に北陸大学の経営陣がいかに専横であるかを再確認させるであろう。そして、そうした先生方が児童や生徒に北陸大学をどのように語るであろうか。

 大学は、今、厳しい大学間競争にさらされている。慶応大学でさえ、将来を見据え共立薬科大学と提携合併した。どの大学でも学内の結束はもとより、将来的には生き残りをかけて他大学との合併を模索している。そんななかで我が北陸大学は、教員の結束をはかるどころか、一部の教員を排除し、あげく解雇しようとしているのである。そして、この解雇の社会的メッセージは、@北陸大学は理事長を批判する言論の自由がない、A教員をこのように大事にしない大学が学生を大事にするはずがない、B卒業生や県内の小中高の先生のことを全く考えていない等々。


 今、求められるのは田村氏の解雇ではなく、理事長・学長を始めとする法人トップの総退陣である。

 今、試みに北陸大学の全教職員に田村氏が解雇されるべきか、理事長・学長が退陣すべきかを聞いてみよ。

 筆者は北陸大学教職員組合にぜひ、このアンケートを実施するように申し入れる。


<今後も、皆さまのご意見を掲載していきますので、ご投稿下さい。>