1

北陸大学教職員組合ニュース271(2008.6.11発行)



『はい、雪は黒です』か?

「理事会の方針に従」えが、教職課程をなくした


 北陸大学には理事会から配られた『北陸大学証』がある。理事長面談では、これを所持するよう指図された。『証』の「教育に対する姿勢」の項には、「理事会の方針に従い」という文言がある。どんな方針か、その内実を問わないで、いかなる方針であろうとも「従」えというわけだ。
(本稿では忠実な引用を心がけたことをお断りします。)


大学の、ではなく、理事会の過ち

 人は過ちを犯す。人の集団である理事会とて過ちを犯す。事実、理事会はたびたびその過ちをマスコミに暴露されてきた。

 「国に虚偽報告2度」(『読売』97年)では、文部省が「異例の行政指導」を行い、北陸大学では「理事会、評議会の構成メンバーが学校法人関係者と関連産業に偏っている」と指摘され、理事会は「公共性を自覚した運営を求め」られた。言い方を変えれば、「私物化」をするなと言われているに等しい。
 「異例の行政指導」をされても懲りない理事会は、「再行政指導」(『北中』97年)を受けた。その理由は、前回の「指導後も改善が進まない」(同)からであった。更に「経理内容の公開を教職員や父母らの関係者に公開することも新たに求め」(同)られた。同一年度内に2度も行政指導を受ける理事会とは、まさに前代未聞である。


「従」えは、神のみの命令

 人は、相手に「従」え、という時、自分は絶対的に正しくなければならない。人間は過ちを犯す動物である。誰も意図して過ちを犯そうとする人はいない。無意識に犯す場合もあれば、知識や経験が不足していて犯す場合もある。したがって、人間は「従」えなどとは言わない。人は、恥ずかしさを知り、自らが誤った場合に相手が被るであろう被害、心の苦しみを察する動物でもあるからだ。信仰の篤い、求道精神の持ち主ならば、神をも恐れぬおごりと捉えるであろう。


教職課程をなくした誤り

 2004年度、外国語学部、法学部を改編して生まれた未来創造学部から、経営側は、両学部にあった教職課程をなくした。組合員教員にも、高校から問い合わせが続いた。入学して初めて教職課程がないことを知り、退学していった学生も少なくない。

 組合も教職員も、廃止に対しては批判的な態度をとってきた。しかし経営側が「理事会の方針に従」え、と耳を貸さなかった。以下に、教職課程の廃止に異議を唱えた教員、組合員の声を挙げよう。
【例1】2003年8月7日 新学部等に関する説明会(法学部)
 一教員  :「教職科目をどうするのか」

【例2】2003年8月29日 団体交渉
 岡野教員 :教職課程を作らない理由をはっきりさせてほしい。
 経営   :成果を挙げ、社会に受け入れてもらうためには、教職課程はいらない。
 岡野教員 :教職課程があったら、なぜ新学部の教育の成果が上らないのか?

【例3】2005年6月30日 学長面談
 学長   :何か提案があるか
 田村教員 :何度も提案してきた。例えば、教職をなくさないように・・・(略)学生数を確保しようとすれば、教職はなくすべきではない
 学長   :教職は未来創造学部ではスタートの時、無かった
 田村教員 :「無かった」ではなく、「無くした」でしょう。自然天然現象ではない。
 学長   :学生数確保というが薬学部では、教職が無くても学生は来ている。

教職課程をなくした真の理由

 北陸大学の外国語学部と法学部の教職課程には、毎年毎年、30〜40人の学生が登録し、専門以外に余分に教職課程をとるために、エクストラの学習に取り組む意欲のある学生が多かった。
 「教職課程は要らない」、なくしても学生は減らない、「薬学部では、なくても来ている」と、薬学部を引き合いに出す珍妙な論理を展開していた経営側は、突如、2006年1月4日、「平成18年度の学長方針と具体策」で「教職課程(語学教員)の設置」を言い始めた。では、平成18年度につくれたか。平成18年度はおろか、いまだに教職課程はない。
 教職課程をなくした真の理由の1つは、多くの教職員が知っているように、教職科目を担当していた2名の教員が、正論を述べ、経営側の理に適わない方針には批判的であったためである。まず担当科目をなくし「解雇」していく理事会の常套手段が2人にも顕著であった。教職科目の担当で赴任してきた2名の教員は、退職をした。外語では17年間、法学部では12年間、それぞれ学部開設以来続いてきた、実績を持つ教職課程を、まともな理由もなく、教員排除のために、わざわざ潰した。この時、退職した1名の教員は「大学が社会的意義を失っている」と、最後の教授会で発言した。教職課程をなくす必要は全くなかった。


戦後の教訓:「非人道的な命令は、拒否しなければ実行者の個人犯罪となる」

 第2次世界大戦中、大森捕虜収容所で計理係をしていた八藤雄一氏は、1995年、テレビ金沢の『ドキュメント95』で捕虜への残虐行為を次のように、慚愧の念を込めて述べている。
 上官が『雪が黒い』というと、『はい、雪は黒です』と言わなければいけないという教育を受けたわけよ。とんでもないことでしょ。(略)理論的に明らかに間違っていても、日本の(軍隊では)『違う』って言えなかった


 1998年6月、外務省は、東京裁判等の軍事裁判関係文書を公開した。『毎日新聞』は、自社の河内孝氏(社長室次長)と識者の対談を載せている。
 河内「極東軍事裁判の教訓は、上官からの非人道的な命令は、拒否しなければ命令実行者の個人犯罪となる」という視点だ。だが、守られていないのは「たとえ上司の命令でも倫理に反し、法律違反なら拒否する」(1998年6月29日)という姿勢だ。

 ここ数年、食品、建築基準等で、偽装、虚偽報告が目立つ。経営者が労働者に偽装、虚偽報告を命じている。倒産−解雇が続出している。不当な命令には従わないことこそが、その組織を救うことになる。
 未来創造学部が開設された平成16年、法人は『With』紙上で、次のように書いている。「教職員は学生を一人でも多く増やすため、募集活動に全力を挙げなければなりません。自らが教育する学生は、自らの汗と努力、実行力により集めなければならない時代です。」(平成16年9月、第6号)教員に、学生集めの「汗」を流させ、「努力」させ、自らは学生を減らす「努力」をする。この号の小見出しは「財政基盤の確立の基本は学生確保(略)」となっている。「一人でも多く増やす」なら、教職課程を潰すべきではなかった。



投稿 −4月初めに、組合に投書がありました。掲載がたいへん遅れましたことをお詫びします。今後もひき続き、皆様の率直なご意見をご寄稿下さいますようにお願いします。−


薬学部の苦しい教育の状況は、理事会が招いた

薬剤師国家試験の合格率は大幅に低下した。今回受験の卒業生は大幅定員増によって530人もの学生を入学させた学年であったから、合格率の低下は入学時点から予想されていたことであった。したがって、低下はしたものの、寧ろ、よく踏み止まった、学生も教員もよく頑張ったと評価すべき水準ではある。

この突然の定員増は経営側の判断であった。おそらく教員は誰一人望まなかったであろう。教員を増やさず学生のみを増やすのは教育の効果を考えれば暴挙であるからである。当時喧伝された「量的拡大をもって質的向上を目指す」などということは、こと教育の場ではあり得ないことであり、世間の失笑を買うほかない妄言だからである。縮小した文系学部の余剰定員を理系の薬学部に移すなどということは、理系の教育現場では考えられない非常識であった。それでもこの4年間、大所帯の学生の教育に誰もが必死で取り組んできた。しかし、その結果がこの合格率である。定員増で教育も混乱した。教員は疲弊しきった。今年度は560余名の4年生に加えて国試不合格者200余人の教育にも心を配らなくてはならない。これまでは本学には父兄が子弟を託すに足る実績があった。他ならぬ教職員が築き上げてきたものである。今回は世間をしてその信頼を一挙に揺るがすことになった。無茶な定員増に走った経営判断の責任は重い。

2008年度の薬学部入学者数は215名で充足率は70%となった。この入学者減は厳しい。何故、このような志願者減となったのか。私立薬学部数の倍増と6年制化は大きな理由だろう。地方大学という側面もあるだろうが、理由はそれだけにはとどまらないだろう。

大幅定員増と「量的拡大をもって質的向上を目指す」というキャッチフレーズに無責任で金権的な経営体質を感じ取った父兄は多かったであろう。また高校の進学指導者は国試のランキングが低いにもかかわらず更に大幅に学生を増して、さらなる国試の合格率低下が危惧される無節操な大学と受け取ったのではないか。国試の結果を見る限り、父兄や進学指導者の観測は正しかったようだ。

2007年度から全国の全ての高校を指定校とした。実質、入試の無試験化である。これも経営側の一方的判断であった。その結果、同年の志願者倍率がほぼ1、今年度は上述のとおりである(共に薬学部)。全国の高校を指定校にしたことは、「そこまでしないと学生が集まらないのか」との印象を人々に抱かせてしまったであろう。「経営が危ないのか?」、「卒業の6年先までもつのか?」と。経営が危なかったわけではなかろうが、安易な受験生集めをしたためにこのような心証を与える愚を犯したのである。果たして、そこまでして学生を集める大学に自らの子弟を心配せずに送り込む親がいるだろうか。ダメ押しをするように、定員割れがほぼ確実となった本年3月には入学を勧誘するダイレクトメールを発送したという噂がある。これこそまさに経営不安観測を自ら誘発し、一旦入学を決めた学生にすら先行き不安で入学辞退をさせかねない行為ではなかったか。学生募集という目的に逆行することになる影響について、理事会はどれだけの議論をしたのであろうか。

どの大学でも、優秀な学生の確保に知恵を絞っている。優秀な学生の確保は、薬学部では国家試験の合格率を上げる観点からとりわけ大切であるが、教育の効果の向上だけではなく、卒業生の社会的評価の向上にもつながる。このことは長い目で見て大学の基盤を固め、当然の帰結ながら経営の安定にもつながるのである。

全国指定校化について、マスコミには驚いたような声が散見されたが、それは本学を選択する声ではなく、切り捨てた声でもあったであろう。間違っても、「一定の理解が得られた」などと解釈すべきではない。また、学内には「もし実施しなかったら入学者がもっと減っていたかも知れないのだから、この判断は正しかった、あるいは間違いとは言えない」と、経営判断を擁護する主張があるそうである。しかし、この論理は既に消去され検証不可能な選択肢を引き合いに出す詭弁であるだけでなく、本学を選んだ学生に失礼である。全国指定校化をしなかったら受験生はもっと気持ちよく本学を志願したかもしれない、との逆の判断もある筈である。

さらに「秘伝のタレ」に至っては誰もがインチキなキャッチフレーズと感じるのではないか。凋落傾向の国試合格率を見れば察しはつくし、そもそも教員が考案したものでもないであろう。大学選びは真剣なのである。具体的な根拠を欠く秘伝のタレでは魅力を感じようもなく、若者の琴線に触れることはできない。そればかりか、「タレ」をかけられることになる彼らが、不快感をもつことはないか、反発から彼らの心を遠ざける結果にならないか。

18歳人口が多かった時期の大学の経営は楽であったようだ。誤った判断をしても受験生が押し寄せた。したがって、経営の力量は問われず、貢献度がゼロでも馬脚を現さずに済んだ。この間に大学を取り巻く環境は大きく変化し、ここに来て経営の力量が強く反映されるようになった。本学では、受験生、父兄及び進学指導者を敬遠させる策を選択してきたように見える。その結果が現状であろう。本学の経営に評価すべきはあったのか、取るべき責任はないのか。正当な評価と、陋習を絶つ抜本的改革を緊急に行うべき時に来ている。

平成19年度の賞与は、薬学部の定員割れと国試合格率の不振を反映して、合計で0.6ヶ月の減となった。毎年の連続減額の合計はこの数年間で3.0ヶ月分に達する。一方、役員報酬は理事長のみ増額されたという噂がある(組合ニュースによると団交での質問に対してその事実は否定されなかった)。国試の不振も定員割れも、根本的な原因は理事会、経営側の方針の誤りにあることは明白だ。それにもかかわらず、教員の賞与を減額したのは、責任を教員に転嫁したことなる。このような無自覚無責任無節操な経営では、この先、失地挽回のチャンスはあるまい。我々には学生と卒業生の為に大学を守る責任がある。それ故、このような経営者と心中はできない。今や生活の糧すら脅かされているが、この事態を招いた責任を追求できる主体は組合をおいて他にない。全教職員の力を結集して緊急に経営刷新に取りかかるべきである。先日、韓国起亜自動車の社長は代表権を返上した。労組の協力を得るためだそうである。起亜は起死回生に成功するであろう。「信なくば立たず」とは孔子の言葉である。