北陸大学教職員組合ニュース第51号(1997.2.11発行)

 

学長・法人の一方的な「通知」は横暴

 

      なぜ、有志の会の本意を聞かないのか?

 

 学長・学部長の公選制を求める教員有志の会が行っている活動に、「法的根拠を欠く違法行為」と学長並びに法人は決めつけていますが、これは明らかに先入観にとらわれ、情報の確認を怠った事実誤認に基づく見解であると、我々は判断します。25名教授原告団による裁判に見られるような次期学長選任決定の手続きの不備や、136名教員の公選制要求の動きに対する対応の怠慢さの追及から逃れるかのような、最近の学長や法人の有志の会(世話人)や組合に対する度重なる「通知書」とそれを取り上げたWith Plus は異常であります。

 新聞報道(朝日新聞)のみを鵜呑みにし、有志教員から事実確認や活動趣旨を全く聞くことなく、先入観によってあらかじめ作成した「通知書」を学長が突然全学教授会で配付し、権力で押し切った暴挙ともいえる態度を見るにつけても、学長・学部長の公選制を原点にする学園の民主化の必要性はますます高まったといえます。

 自主選挙が学内規程に基づくものでないこと、またそれに実効性がないことは当然のことであります。現在公選規程を持たない本学教員が、公選制実現に向けて意思を表明し、準備行動を行ったとしても本学にとっては前向きな発展を意味こそすれ、混乱を招くというものではありません。しかも、法人が心配する「2人学長」を作るためのものではなく、自主選挙によって選出するのは、あくまでも「学長候補者」です。したがって、学内諸規則に違背するものは何もなく、誤った見解に基づく学長の「通知」は、的はずれと言うべきものと思われます。

 組合には2月10日に前回同様な内容の「通告書」が再び届きました。また、With Plus で報道されたように、公選制を求める教員有志の世話人6名に2月7日に送られた「通知書」と同様趣旨の文書が、2月11日再び配達されています。これらの文書は、当事者全員が毎日大学に出勤しているにも拘わらず、留守中の自宅宛であり、このやり方は明らかに家族に対する嫌がらせであって卑劣な方法と言わざるを得ません。

 我々は民主化を求める組合方針に変わりはなく、大学当局から教職員に対する数々の文書に今後反論してゆくつもりでありますが、このような有志の会の意思表示を力によって押さえつけ、覆い隠そうとすることに憤りを感じます。大学教職員の全員の判断がこれからの北陸大学を決めて行くものである以上、大学当局は有志の会の“正式な言い分”についても報道すべきです。組合がこれまでに入手した次の文書を添付し、皆様の判断材料になれば幸いと思います。

1.顧問弁護士の見解コメント

2.有志世話人の「通知書」に対する反論文

3.法学部教員の「久野学長の「通知」と中川専務理事の意見について」

 

 

 

顧問弁護士からのコメント:

  現在実施されようとしている、教員有志の方による学長候補者の自主選挙なる運動は、もとより憲法の保障する言論の自由その他の権利に基づいて行われているもので、まさに憲法上の権利の行使に他なりません。

  この自主選挙が学内規程に違反する違法なものであるかのような議論があるそうですが、この所謂自主選挙は、もともと学内規程に基づくものではありませんし、大学の学長を正規に選ぶことを標榜しているものでもなく、単に、学長公選制を求める運動の一環として、将来の公選制に備えて、その段階での学長の候補者を、自主的に選出しようとしているものに過ぎません。この意味で、自主選挙は文字どおり「自主選挙」であって、学内規程による正規な選挙ではなく、学内における形式的な有効性がないことを、当然の前提としているものです。従って、この運動は、何ら、学内規程に違反するものではないことは言うまでもありません。

だから法人側が、自主選挙に介入したり、これを妨害したり、これに何らかの制裁を加えることこそ、違法、不当と言わざるをえないのです。

 

 

 

 


 

学校法人北陸大学学務担当理事 中川幸一 殿

北陸大学学長 久野栄進 殿

 

    教員有志世話人宛通告に対する抗議文

        および学長「通知」に対する批判

 

1 教員有志世話人宛「通告書」の通告の仕方に対して厳重に抗議します

 

 1997年1月24日に、公選制を求める教員有志世話人は、「理事長 北元喜朗」氏宛に学長・学部長選出規程と選挙実施に関する提案を行ないました。これは、提案書の中にも記載されている通り、厳正な投票によって示された全教員の73%の意向を受けたものです。中川専務理事は1月31日(金曜日)の回答期限日に世話人の一人、林外国語学部教授に提案書の一句を引用されて、「冷静に、賢明な回答」をしたいから、週明け火曜日に文書で回答したい、と申されました。その際、文書のやりとりでは不十分だから、話し合う場をもちたいとも申されましたし、実際結局2月5日になって周航理事を通して手渡された「専務理事 中川幸一」名の回答書の中にも、「話し合いの土俵づくりについて、先に実現を申し入れて」いるとしています。私たちは、混乱を招いた理事会の決定に言及することなく、決定を前提にした話し合いを求めることの不当性を指摘し、先ず言を違えたことの過ちを認めることを要求しましたが、話し合うことを望まなかったり、拒否したりしたことはありませんし、現在でもそれは変わりません。しかし、2月5日以来の立て続けの文書には話し合いの意図も誠意もまったく見られず、理事会側の一方的見解を並べて、「数の力による押しつけだ」、「加担するな」、挙げ句の果てに2月7日付けの教員有志世話人6名に対する「通告書」では「重大な決意をもって対処せざるを得ないことを通告する」となっています。私たちは、個々の事柄について言及する前に、このような威嚇的な「通告」の仕方に厳重に抗議します。

 

2 全学教授会のモラルを批判します

 

 中川専務理事名の2月5日付けの回答書の中には、「立場により見解にいかに隔たりがあろうとも、議を尽くし、律に基づき解決を目指すことこそ、大学人の誇りのはずです。」とあります。しかし、学長名の「通告」の全教員に対する配布を決めた、2月6日の全学教授会は、わずか30分にも満たないくらいの議論しかありませんでした。それも、理事会の不誠実な態度に対してどう考えるのか、という質問には誰一人明確に答えようとせず、また、この重大な問題に対して、教学最高審議機関の全学教授会は何をしてきたのか、現在の由々しき事態に対して何をすべきなのか、ということもまったく議論しませんでした。そもそも、昨年3月に初めて、学長が重要事項として「学長公選」問題に関して、論議を提起されたときは、全学教授会事項かどうかで数か月も議論を重ねたのに、今回学長が、学校教育法第58条に定める統督権こ基づいて通知を出したいから、全学教授会で協議してくれと提案されたときは、それが全学教授会の議題として馴染むかどうかの議論をまったくせず、実際の議論においては、多くの人の発言を聞きたいからといって、有志世話人でもある委員の発言をさえぎって十分な反論を許さずに、教員に対する威圧的な「通知」の配布を多数決で決定に持ち込みました。これが数による押しつけでなくて、何が数による押しつけでしょうか。しかも、賛成の挙手をされた8委員中の2名は、昨年2月の「公選制」に対する要望の際、教員有志として署名したのです。

また、数名の委員は「自主選挙」実施の提案文すら、読んでいなかったのです。学長通知書の配付の異常なまでの速さといい、コピーでない公印入りの麗々しさといい、当日の教授会ははじめから結論が決められた、意図的に仕組まれたものとしか考えざるを得ません。全学教授会の大学人としてのモラルを問います。よって、久野栄進学長名の一方的「通知」の出し方に対して厳重に批判します。もしこれが、先の「重大な決意」と関連するものであれば、批判どころで済むものではありません。

 

3 公選制を求める教員有志の基本的立場を通知します

 

 北陸大学の次期学長選任決定に対して、現在25名からなる教授の原告団により、理事会のみによる決定の無効確認の訴訟と、任命禁止の仮処分申し立てが金沢地裁になされています。とすれば、公選制を求める教員有志が、自主的に候補者をあらかじめ選出しておくことは、それが仮に無駄なことになったとしても、教員側の意思集約として意味のあることと考えられます。私たちは、もともと自主選挙に「実効性」があるなどと考えていませんし、まして、4月からの2入学長などを意図しているわけでもありません。従って、このことが非難されるような、学内の無用な混乱を呼び起こすはずもありません。私たち教員有志は、これまで、数度に渡って教員の意思確認をし、その結果、大多数の意志によって、「学長候補者」を選出しようとしているだけです。もちろん学内規程によるものではありませんが、学内規程に違反するものでもありません。自主的規程にしたがって、公正に、誰からも納得される方法で、自主的に「候補者」を選ぼうとしているだけだからです。この規程と候補者は、理事会との話し合いの私たちの基礎ですし、教学の最高審議機関である全学教授会で、この問題を取り上げるというなら、そこでの提案の基礎でもあります。全学教授会で是非検討してほしいとは、昨年3月に提案した時から言っています。このようなプロセスは、北陸大学の現状の下では、きわめて民主的な手続きと確信しています。全学教授会の席で一委員から言われた「人民管理」や秩序破壊などではまったくありません。

 さらに、学部長の選出については、これこそ十分時間があったにもかかわらず、まったく話し合いに応じることなく、いわばどさくさ紛れのように、「現行規程で実施するのが最良」としています。この一文によって、この問題も解決済みの既定事実とするつもりでしようか。もしそうであるなら、この点も厳重に抗議します。

 

 以上、厳重に抗議し、批判するとともに、理事会が、冷静かつ賢明に、教員有志の主張に耳を傾け、無謀な行為によって大混乱を呼び起こすことなく、実のある話し合いに応ずるよう求める次第であります。

 なお、「通知」等の内容の法的問題については、後日改めて見解を申し上げたく思います。

 

1997年2月10日

学長・学部長公選制を求める教員有志世話人

薬学部   橋本 忠 吉藤茂行

外国語学部  岡野浩史 林 敬

法学部   島崎利夫 田村光彰

 

 

 


 

久野学長の「通知」と中川専務理事の意見について

法学部教員

 教員有志による学長侯補者選考規程と自主選挙実施の提案が具体的になされるようになってから、急に法人や学長の文書による「対応」が目立つようになった。それまでは、教職員側の質問や意見、あるいは提案にほとんどまともに対応してこなかったのとはまさに対照的である。しかし、今回の対応も、まさに「トップダウン」にふさわしい方法で、一方的に上から降りてきたものであって、大学の自治とか民主主義の名とは無縁な体質を露呈している。 これまで、本学が表面的に平穏に見えたのは、意見表明の前提である「情報」自体が法人当局によって独占的に管理されていたからであって、タブーであった理事長批判のビラを撒いたという「嫌疑」で学生を長時間軟禁するといった、他の大学ではおよそ考えられないような状態が続いていた。そして、この事実さえ、現在に至るも法人当局は確認せず、責任の所在も明らかにしていないのである。教職員組合ができてようやく情報が出回るようになってからは、勤務評定によってボーナスのカットが行われたこと、不当に配置転換が強行されたこと、教員人事が教授会の議を経ることなく行われてきたことなどの管理強化を示す事態が一般にも明らかになる一方、中傷文書の配布、盗聴や尾行監視などといった大学の自治が脅かされるような管理運営上の不備が明らかにされた。

 そうした状況の中で、有志教員がこのような「トップダウン」の方式を改めるために、まずは学長と学部長を自らの手で選ぶ「公選制」を求めたことは、当然ともいえるささやかな試みであった。理事会による学長の選任制など、もはや一般的には通用しない「前時代的」なものであることは誰の目にも明らかであるから、理事会も学長もこの公選制の要求には正面から反対はできなかったので、「真摯な対応」を迫られる前に、現行の任命制の規程を根拠に次期学長を早々と選任し、外部にも公表してしまったのである。

 この手続きは「トップダウン」方式の極端な現れであって、上で決めたことを事後に下に降ろして報告すれば事足りるとする感覚である。そしてそれは、現行の規程によったものであって、教授会や教員の意見を聞かなくても違法ではないと強弁するのである。たとえ現行の規程によるとしても、あらかじめ教授会や教員の意見を聞くことは十分にできるはずであり、それがむしろ法規の常識的な運用のはずであるが、それをしなかったのは、反対意見が出ることを予測した政策的な理由のほかに、教授会などは正式な機関とも考えていないトップダウンの感覚がしからしめたものと思われる。

 ここで重要なのは、学長の公選制が北陸大学でもかっては存在したことがあり、その規程も残っているのであるから、当局がその気になるなら、今回の学長の選任に間に合うよう公選制に改めることに十分な時期的な余裕があったという事実である。公選制を求める教員有志の数が136名(教員総数約180名)にも及んでいたことは、教員の総意が事前にすでに明確に形成されていたのであって、これを無視して一方的に選任した学長を押しつけてはばからない当局者には大学の「自治」や「民主主義」を語る資格はないと言わなければならない。

 そこで、以上のような経過を前提として、今回の学長の「通知」(2月6日)なるものの内容を見てみよう。まず「通知」という表題が何を意味するのか不明である。通知とは、通常、一定の事実を知らせるという公報の意味であるが、ここでは教員有志による学長・学部長選挙実施の提案等が教員に配布されたという事実の通知としては全く意味がなく、実質的な内容はこのような動きに対する学長の批判的な見解を表明し、各位の見識に訴えるものとなっている。

 その趣旨は、第一に教員有志が学長候補者の自主選挙を強行しようとすることは、学内諸規程を無視するのみならず、学内組織、教育現場に大きな混乱を生じさせるもので、看過できないという点にある。しかし、いわゆる自主選挙が学内規程に基づくものでないことは本来明らかなことであり、だからこそ「自主」選挙と呼ばれるのである。大学の正式機関が学内規程を無視すれば違法であって許されないのは当然であるが、自主的な組織が自主的な活動をする際にもこれが及ぶというのは理論矛盾である。また、自主選挙はあくまで自主的な活動であるから、学内組織や教育現場に実質的な影響を与えることはあっても、それが大きな混乱をもたらすことなどはあり得ない。それは、学内規程を無視して公選制を力によって奪取するなどといった大それたものではなく、公選制への移行を促進するための準備作業であるに過ぎない。

 第二に、この「通知」は、学長の選任が現行の規定に基づいて行うのが正規の選出方法であって、教員の有志が行う自主選挙は実効性をもたず、それは大学の自治を踏みにじる背反行為であると非難している。しかし、自主選挙が正規のものでなく形式的な実効性をもたないことは当然のことであって、そこに初歩的な誤解がある。したがって、それを理由に自主選挙が大学の自治を踏みにじるものであるという主張にも論理的な前提が欠けている。たしかに、自主選挙というのは異例の試みであって、極めて例外的な場合にしか問題にならない。しかし、そのような状態が北陸大学にまさに生じているのであり、今回の自主選挙は、法人およぴ学長までもが現行の任命制を楯にしてトップダウンの学長人事を強行しようとする「異常な緊急事態」に対して、有志教員がやむなく選択した防衛手段であるといわなければならない。しかもこの提案に過半数をはるかに越える賛同者があるという事実からすれば、それが大学の自治を踏みにじるものという非難は的はずれであるというほかない。「大学の自治」の担い手が誰であるのか久野学長に聞きたいものである。

 第三に、この「通知」は、有志教員が現在行おうとしていることが本当に最高学府である大学に相応しい行動なのか、そして有益なのか、学生たちに胸を張って説明できることなのか、在学生や新入生に迷惑を掛けることがないのかを再考し、教育現場に無用の混乱を招くことがないよう、軽率な行動を慎むよう要望するとなっている。これも事実誤認に基づく権威的な発想方法の現れである。むしろ、法人や学長が無反省に推進しているトップダウンの学長選任の方法こそが、本当に最高学府である大学に相応しい行動なのか、果たして有益なのか、学生たちに胸を張って説明できることなのかを自問自答すべきではなかろうか。この間、理事長個人の言動に対する教員の公開質問状が出たり、106名もの教員から久野学長の退陣要求まで出ているのが現状であって、これらを荒唐無稽な作り事として、学生達に胸を張って説明できるのであろうか。むしろ、教員の側は、不必要に事を荒立てることなく、講義や入試などに支障のないように慎重な配慮をしてきているのである。混乱なく勉学に励んでいる学生たちは賢明であって、適正な判断をしているといってよい。学生たちを信頼すべきである。

 最大の問題は、久野学長自身が真に大学のための重大事と考えるなら、なぜこのような一片の「通知」を下しただけで事足りるとされるのかという点にある。学部教授会では学部長がその趣旨を代弁されたが、これもまたトップダウンの方式そのものである。学長自身が学部へ出向き、全数員に対し自ら説得に努めるべきが本筋であるが、学長にはその気持ちがおありであろうか。

 次に、中川専務理事の「良識に基づき、冷静な対応を」と題する文書(2月6日)についても、その内容を検討しておこう。上記の学長の通知と同工異曲であるが、煩瑣をいとわず、その趣旨を要約し、批判を加えておきたい。

 それは第一に、自治的に自らを律し高めることを尊しとするはずの大学人が、学内の正規の機関の議を経ようとせず、学外の機関に訴えあるいは発表することは、議を尽くして律に基づき解決を目指すという大学人の誇りに反するという。これは一般の大学については概ね妥当することであって、中川専務にわざわざ大学の自治について講義を承るまでもない当たり前のことである。しかし実際には、そうではない異常な事態がまさに北陸大学において起きているのである。今回の一連の訴訟や新聞発表は、結果として学外に問題を出したことになったが、それはそうせざるを得ない切実な理由があったからである。大学の内部で解決できなかったのは、本学に特有の「トップダウン」方式のために、固有の「大学の自治」と民主主義的な手続が失われているからに他ならない。理事会をコントロールするものはなく、学長も学部長も理事会の任命制であって、教授会には実質的な権限は全く存在しない。そこで権利侵害が発生した場合には、その救済を外部に求める必要が生じ(救済申し立てや、無効確認や損害賠償などの訴訟)、また改革の必要を提言して行動を起こせば、それが社会的な関心事になるのは当然の成り行きである。

 第二に、今回の自主選挙の提案が学内の正規の機関で討議をつくしたものではなく、数の力を背景にした一方的な押しつけであるとし、その提案者(世話人)が先の学長選任の無効確認訴訟の原告およぴ教職員組合の執行委員と重なっている事に問題があるという。良識ある大学人ならばこの提案をどう扱うべきか容易に理解できるだろうと揶揄的な表現さえ用いられている。しかし、この批判も自主選挙の提案の趣旨とその内容的な価値を何ら毀損するものではない。まず、提案が正規の機関で討議されたものでないことは当然の事実であって、むしろ当局がそれを妨げているのである。数の力を背景にした一方的な押しつけであるといわれるが、それは過半数をはるかに越える教員の賛同を得た提案であるということであって、決して誰かに押しつけるという筋合いのものではない。むしろ、当局の方こそ教員の意見を全く聞かないで任命した学長を正式の手続として一方的に押しつけようとしているのである。数の力という表現も、いかにも数をたのんでといいたいのであろうが、多数の教員の判断を尊重できない当局者の信頼の無さが隠されている。また、提案者(世話人)が組合の執行委員と重なっていることから過激な提案だという印象を与えようとするのであろうが、この提案自体は極めて穏健なものであり、執行委員も決して過激ではなく、慎重すぎる位であることは、組合の大会や団交の様子などからすでに周知のところである。教員は何が「良識」かを心得て判断しているのであって、当局に教えを請わなければならないほど従属的ではない。

 第三に、中川専務の主張は、学長・学部長の選任に関する規程の改正は現行規程に基づいて順序を経て検討すべき事柄であって、時間の制約があるからといって、一方的かつ強引に押しつけることは、本来の民主主義とは相いれず、現状を性急に変更することは困難なので、次期学部長選任は現行規程で実施するのが最良であって、新学長の下で新しいシステムを作るべきであるという。これも自己矛盾に満ちた主張である。たしかに、学長・学部長の選任規程の改正は現行規程に基づいて行われるのが当然であって、それ以外の方法があろうはずはない。しかし、問題はそんな一般論ではなく、なぜ昨年2月に学長・学部長の公選制の提案がなされ、その趣旨が了解されながら、積極的に推進されないまま、突如として8月の段階で学長が任命されてしまったのかという点にある。これまで学部長の公選制そのものを話題にもしなかったことにある。このことこそ、今になって時間的制約があるからといって一方的にかつ強引に押しつけることは本来の民主主義とは相いれないという批判を自分自身にも受けなければならない最大の問題点である。自分達のやったこと、やらなかったことに何らの反省もないのは、トップダウンの体質にとらわれているからである。次に、自主選挙の提案が公選制を前提とした場合の教員の多数の総意を判断する一つの行動として行われるものである限り、それは一方的に強引に押しつけるといった性質のものではなく、むしろ、本来の民主主義を実現する作業である。現状を性急に変更することは困難であるといわれるが、教員多数の総意はすでに固まっているのであるから、あとは当局の意向次第であって他に何も障害はないはずである。

 久野学長も中川専務理事も、秩序とか良識とかを持ち出して何とか現状を糊塗しようとする前に、過半数をはるかにこえる教員が、当局の方針に反することがわかりながらも、なぜあえて改革の提案に賛同されようとするのかを真剣に考えて頂きたい。教職員の信頼を裏切るようなことがあれば、北陸大学には春は来ないであろう。

(平成9年2月8日記す)

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* 久野学長の「通知」: 北陸大学公報紙 With Plus 2月7日号 (法人発行) 

* 中川専務理事の意見: 北陸大学公報紙 With Plus 2月6日号 (法人発行)