北陸大学教職員組合ニュース第59号(1997.3.15)

 

学長の責任を問おう(1)

学長即時退陣要求に対し、久野栄進氏未だに何も答えず

 

 ご承知の通り、「久野栄進氏」に対する「学長即時退陣要求」が、昨年12月19日に過半数の北陸大学教員によって理事長と学長宛に行われました。

 「退陣要求の理由」は、久野氏は教学の長として機能せず、その学長としての責務を果たしていないばかりでなく、今日の混乱を招いた責任は重大であるとし、具体的には7項目が例として挙げられています。さらに、組合が昨年来行った一連の学長への公開質問を全て無視した行為もその理由に加わります。これらの詳細は、組合ニュース第43号(本年1月11日発行)で報じましたが、内容を確認するために「退陣要求書の提出に関わる文書」を再度添付します。

 しかるに、その要求は完全に無視され、未だに責任ある回答が久野栄進氏本人からも、北元喜朗理事長からもありません。「次期学長の選出と撤回」劇では多くの新たな事実も判明し、退陣要求項目がさらに増えています。そこで、再び久野氏の責任を問い、学長の即時退陣を再度要求しようではありませんか。

 

 (1)まず最初に「久野さん、一体あなたは何なのですか?そして、6階に閉じこもって一体何をしているのですか?」と問いたい。

 最近の言動から察するに久野氏は、最近の混乱した学内事情に自分自身が学長として大きな責任があることを、全<理解できずにいるのか、さもなくば、自ら思考、判断機能を停止させているのか、または何者かによって停止させられているように思えてならない。

昨年からの諸問題に対し、何ひとつ自分の信念で対応したこともなく、どこかの指示でのみ動き、教学の代表、責任者として問題の処理に当たってはいないと言わざるを得ない。

このことは、今回の一連の次期学長問題でも、とくに衛藤氏のコメントなどからも、浮き彫りになっている。報道関係者からも、学長はどうしているのか、隠れてるのかなどかなり辛辣な質問がある。事実、教学の問題でもコメントするのはいつも中川専務理事か事務職員では、そのように不審がられ、呆れられても残念だが致し方ないようである。

 (2)次いで、なぜ「教職員組合が結成」され、「学長、学部長の公選制を8割以上の教員が要望」したのか、久野氏はこれらの事情が理解できているのか?

と問いたい。  

 「組合がなぜ結成されたのか」。最大の動機の一つは、久野学長にありと言っても過言ではない。教学の代表として唯一の理事である学長には、教員の働く環境、すなわち教育環境の整備、改善に努める義務と責任がある。それなのに、全くそれらに努力しないばかりか、例えば、非公式ではあるが、待遇改善要求に対して、「少しばかり給与が上がっても、税金が増えて殆ど変らん」との発言。高給の久野氏はそうであっても、薄給の我々にはその少しが重要なのである。学長や学部長が当てにならなければ、自分達で守るしかない。それで組合を作り、かなり大幅な待遇改善や入試手当等もかち取った。それでも久野氏達は、教員の為に何もしないどころか、逆にに組合を無視するばかりである。

「学長、学部長の公選制の要求運動がなぜ起こったのか」。言うまでもなく、理事長が一方的に任命した久野学長と3学部長の理事会意向の代弁者に終始する態度に、たまりかねてその運動は起こったのであり、彼らに対する「不信任の意思表示」なのです。それが分からない筈がないとおもうのだが。それなのに、「教員の意向を全く無視した理事会の次期学長の選出」と「その唐突な撤回」、それらによって引き起こされたその後の混乱においても、久野氏は何ら教学の責任者として対応をしようともしない。

 

 (3)さらに「久野学長の即時退陣」をなぜ多くの教員が要求せざるを得なかったのか、その本質を久野氏本人は分かっているのか?と問うと共に、久野氏の側近達の責任も追求したい。

 退陣要求理由については冒頭で述べた通りである。久野氏本人は辞めない、理事会も辞めさせないの一点張りで、これに対しての見解や釈明などは未だに一切ない。それなのに、久野氏とその側近達や理事会は、呆れるばかりの対応と発言をしている。

 倒えば、「あと3カ月で退任なのにいまさら」、「冬休みに入り一家団らんの時期に」、「母親が嘆いているのに」、これが責任者の発言だろうか。挙げ句の果てに「勝手に署名して置いていったので、(退陣要求書は)放置してある」とか。さらに、全学教授会など公式の席上での暴言も紹介がはばかられるほどひどいとのこと。

 数年も前から、退陣要求する数カ月前から当日までは特に、大学の現状を危惧する多くの教員が、教学の長の学長であり理事である立場を自認され、本学の正常化のために行動されるよう説得を続けたのを、久野氏は無視するのみであった。退陣要求の運動が始まっていることは一ケ月も前から、署名が過半数に達したことも数日前に知らせて、いちるいの望みを託して最後の説得をした。しかし、今日の混乱や対立を招いた責任も全く感じず、もはや気力すらないようであった。なにも唐突に退陣要求を突きつけたのではない。

 「親や子が嘆かないように」や「一家団らん」が犯罪などの抑止力になっていることは、世間の常識である。母親を嘆かせないように、すべてを無視せずになんらかの対応をすべきだったのである。「家庭の平和」というのならば、生後2カ月の初めての赤ちゃんと正月を迎えようとしていた外国人講師に、突然それも冬休みに入った暮れの27日に解雇通知を北元理事長が出したとき、久野学長は何をしたでしょうか。退陣要求書にも挙げてあるように、多くの教員が理由不明で昇任を半年以上も不当に遅らされたときも、何らの説明も回答もせずに放置したではありませんか。学生の不当監禁事件の際にも学長はなにもしなかった。呼び出された学生の親の気持ちを考えてみなかったのか。それらの多くの人達の人権と家族ぐるみの苦悩はどうでもよかったのだろうか。

 さらに呆れたのは、「良識の府の住人」とかの中傷文書が、学内で配布または家庭に送られたことである。内容の事実関係も出鱈目なのは、恐らく学長が辞めると具合が悪い連中が、情報不足で学内外の現状や当時の報道関係者の動きが理解できていないのに慌てて書いたと思われる。このような卑劣なことをするまえに、学長が職務を果たし混乱を未然に防ぐように助言し補佐すべきであって、利害関係が生じてはじめて、しかも逆効果になるようなことしかできない側近しか久野氏にはいないのだろうか。

 久野さん、信頼と名誉を回復できる最後のチャンスがまだ残されています。先生の奮起と決断を期待します。       

 

 

 

1.教員有志からの退陣要求書の提出に関わる文書:退陣要求文

北陸大学理事長 北元喜朗 殿
北陸大学学長  久野栄進 殿

 

久野栄進学長の退陣を要求します

 

 学長の使命は、とくに私学にあっては,厳粛なものがあります。大学設置者に対して、教学の長、教育・研究の最高責任者として教学の意思を代表する役割を担っているからです。教学の意思が重要なことはいうまでもありません。学校教育法はわざわざ一条を設けて、大学に教授会の設置を義務づけ、重要事項の審議をそれに委ねています。即ち、これによって、大学の自治、さらには私塾等とは異なる大学の公的性格・権威が現実に保障されます。学校法人・北陸大学もこの法律に従うことを明記して、大学設置の認可を受けています。

 しかし、ここ数年の久野学長は、教年の意思を代表すろことがありませんでした。いくつかの例を挙げますと、外国語学部カリキュラムの法人主導の改変、教員が疑問視している入試制度の強引な導入、昨年暮れに発生した外国人教員の解雇事件など。その際に我々は、誰よりもまず学長が教学の立場を代表することを期待しましたが、久野学長はむしろ、法人理事会の意向を推進する代弁者に終始した感があります。さらに、今年4月に辞令交付されるべきであった教員昇任問題。法学部では教授会の自主審査を経て、外国語学部からは学部長の推薦で2月に出された案件が、10月も半ばを過ぎてやっと発令されましたが、結果は4名もの人が昇任発表から外れていました。学部長は教員人事に関する内規に従って十分熟慮して推薦したはずなのに、これほど大量の不認定者が出たことを、一体どう考えたらいいでしょうか。薬学部教授会が正式決定した人事案件を法人・人事委員会が恣意的に無視したときも、久野学長は学長、教学の長としての立場、任務をどれだけお考えになられて行動したか疑問です。久野学長はそれなりに努力されたのでしょうが、要するにここまで教学の地位、権威を貶めてしまったのです。

 カリキュラム、教員人事、入試、これらは「重要事項」中の重要事項ですから、私立大学といえども、十分に教学の意思が反映されなければならないところでありますが、久野学長のもとで、根本のところで教学の主体性が失われてきました。大学法人が事務機構を「管理局」あるいは「本部」と称し、学長・学部長までもその管理機構に組み込まれているかのような現状は、大学の権威が内部から失墜しつつあると言えます。大多数の教員は、「意識改革」の掛け声とともに著しくトップダウン型に変貌してしまった北陸大学の現状に、深い危機感を抱いていました。先の全教員の八割による学長・学部長「公選」の要求は、そのことの端的な現れであります。

 久野学長がこの要求に対してとった態度も不可解なものでした。学長・学部長の「公選制」に関しては、教員の要望を受けて、久野学長自らも、その正当性、必要性について何度か言明していました。しかし、今回の新学長決定について、久野学長は全学教授会の席で、8月に自らの推薦により次期学長を理事会で決定したかのように報告をしました。我々からすれば、まだ時間がある段階で新学長を推薦したこと自体疑問に思いましたが、それさえも、衛籐氏の新聞(北陸中日新聞)でのインタビューにより、まったく事実に反している疑いが生じました。今回の行動は、ご自分の信念というものがまったく感じられないどころか、信頼に対する背信行為ともとれるものです。

 社会全体と大学の先行きがますます不透明になりつつあるとき、我々は大学人の一つのけじめとして、あえて久野栄進学長の辞任を要求します。理由は例を挙げて言及しましたように、教学の主体性が著しく損なわれたことの意味を、深くお考え頂きたいということあります。我々はこのことによって、教学の主体性を回復し、北陸大学を学校教育法に定めるような、教学の意思が十分に反映された、真の教育の場にしようという、強い決意を明らかにしたいと思います。

1996年12月19日

北陸大学教員有志

 

 

 

1.教員有志からの退陣要求書の提出に関わる文書:退陣要求(7項目の理由)文書

平成8年12月19日

北陸大学理事長 北元喜朗殿
北陸大学学長  久野栄進殿

久野学長の即時退陣要求書

 

 大学の「学長」は,教育・研究の最高責任者として教学の意思を代表する役割を担っています.しかし,最近の学内事情を考えるとき,久野学長は教学の長として機能せず,その責任をまっとうしているとは思えません.例えば

1.「学長・学部長公選制」に関する多数の教員の要望並びに全学教授会の議論を全く無視し,次期学長候補者を常任理事会に推薦したこと.

2.薬学部教授会の審議・評決の結果を無視した独断的教授人事を行わせしめ,これに対する教授会への説明が全くないこと.

3.次の一連の不明朗な昇任人事に対して何らの釈明もなく,その理由の説明もできなかったこと.

 (1)3学部の教員昇任人事が理由不明て半年以上も遅延したこと.

 (2)法学部教授会の自主審査を経た教員昇任人事で複数の不認定者がでたこと.

 (3)学部長推薦の外国語学部の教員昇任人事で複数の不認定者がでたこと.

4.外国人教員の不当解雇事件の際に,教学の長であることを自覚せずに,理事会の意向のみを推進する代弁者に終始したこと.       

5.自己点検・自己評価等を放棄し,その理由の説明の要求や質問に何ら回答しなかったこと.                         

6.学生監禁事件に対して何らの対応もせず,これらに関する質問に回答しなかったこと.

7.教員の入事考課の項目や基準についての説明の要求を完全に無視し,査定を行ったこと.

 このような今日の教学の混乱を招いた久野学長の責任は重大であると言わざるを得ません.我々は,教学の主体性を回復し,北陸大学を教学の意思が十分に反映される真の教育の場に改革するため久野学長の退陣を要求します.

北陸大学教員有志

 

 

 

教学新体制の実体とは何か

法学部教員

 

 学校法人北陸大学は、3月31日付けの機関紙「With」に、「教学新体制のもと更なる発展へ結束を」と題する文書を公表し、その中に理事長名の5項目にわたる「記」なるものが掲載されています。

 衛藤氏の就任白紙撤回を伝えて以来、久しぶりに出た法人の文書ですが、その間の経過は全部省略されてしまって、3月29日の理事会決定の結果のみを文書で流すという、その手法は今までと全然変わっていません。しかも、今回の文書は、その内容もさることながら、誰に宛てられたものかも明確ではありません。前文では「職員の結束」を訴えていますが、なぜか「教員」という表現はなく、理事長の文章にも「ご理解を賜りたい」のが誰に対してであるのか示されていないという奇妙な表現になっています。本当に新体制の下での発展と結束を訴えたいのであれば、教職員を集めて事情を説明し、教職員の意見を聞くという姿勢を示すのが、今法人がなすべきことではないでしょうか。

 しかし、ともあれ、この文書に示されている内容をしっかり分析し、これを実質的な正義と良識の名において評価し批判しておくことが重要であります。それは、今の北陸大学には普通の私学の常識さえ通用しなくなっていることを明らかにすることを示すことになるでしょう。したがって、労をいとわず、以下では、この文書を内在的に検討することにします。

 まず、「教学新体制のもと更なる発展へ結束を」と題する文書についてですが、これが「教学」の新体制を言いながら「職員」の結束と強力を求めていることの意味が重要です。これは、教員の独自性を認めず、職員として一括し、理事会の命令系統に従えさせようとする権威的な姿勢をあらわしたものといってよいでしょう。

 さて、内容的には、本学理事会が学長任用規程に基づいて、佐々木法学部長を次期学長に選任し、あとの三学部長についてもそれぞれ選任したとし、その任期などの説明をしています。ここまでは、理事会の決定の結果を示したものですが、今回は、それが全学教授会に報告されたことすら全く触れられていません。何のために3月29日と31日の2回にわたって全学教授会が開かれたのでしょうか。3月31日の全学教授会では、今回の学長の選任方法についていくつかの疑義が出たのですが、その事実も全く無視されています。

 この手続は、まさに今の本学に特有のもので、その前例であった昨年の衛籐学長の選任方法と全く同様であります。その後の衛藤氏の証言からも明らかなように、衛藤氏が教員の意思を聞くようにと要請されたにもかかわらず、法人がこれを拒否した結果、当の衛藤氏さえ理解できないような理由で理事会決定を撤回するという醜態をさらしたのであります。しかも、ここで重要なのは、この解任劇に今回新学長に任命された佐々木氏が深く関与していたという事実であります。

法人は、今回の学長選任に際して、昨年の教訓から何事をも学ぶことなく、再度にわたって、事前に教授会はおろか全学教授会の意見や意向すら全く聞くことなく、理事会の決定で学長を選任したのですが、前回との違いは、衛籐氏が教員の意見を聞くことを要請したのに対して、佐々木氏にはその要請もしなかったという点にあります。その結果、衛籐氏は撤回され、佐々木氏は受け入れられたのです。

 以上から明らかなことは、本学の現体制の下では、教員の意見を聞くという姿勢の人は絶対に学長にも学部長にも選任されないということであります。今回の新学長と学部長の人選は見事にそれをあらわしています。本学の建学の精神とか私学の独自性といったものがこの人選とは全く関係のないことは、私学の学長であり本学にとって最適とされていたはずの衛藤氏の選任がなぜ法人によって拒否されたのかを考えれば明らかでしょう。

 次に、この文書は、学長と3学部長の教学首脳陣の顔ぶれが一新し、それによって学内正常化と更なる発展が得られるとした上で、佐々木新学長はじめ3学部長は人格識見ともに優れた方々で、学内運営の「円滑化が急務となっている現状ではまさに適任であると評価しています。しかし、もし法人が本当にそのように思うのであれば、堂々と4名の方々を理事会として推薦した上で、教員の意見を聞くべきではないでしょうか。法人はこの文書でも、現行の学長任用規程に基づいて選任したことをくりかえし述べていますが、現行の規程の下でも、事前または事後に教授会や教員会の意見を聞くことは決して禁止されておらず、むしろ任命制の下でもそれが行われているのが他大学での通例であります。なぜなら、理事会で任命された学長といえども教員の支持と協力がなければ職務を円滑には行えないのは当然だからです。

 ところが、今の本学は全く例外的な状況にあります。それは、今回理事会で適任であるとして任命された学長と学部長が、実は皮肉にも教授会や教員会での信任度がきわめて低い方々であるという点にあらわれています。しかも、重要なのは、法人はそのことを知りながらそうせざるをえないというところにあります。なぜなら、もし事前に教員の意見を聞くという手続(とくに公選制)をとれば、これらの方々の名はほとんど消えてしまうという関係にあるからです。そして、このことを明瞭な形で実証したのが、2月に行われた学長のいわゆる「自主選挙」であり、その後、外国語学部と薬学部で行われた「教員による学部長選挙」の決果であります。教員の総意と世論はもうその方向に決定的に傾いているのであって、理事会がこれを尊重するという姿勢をとらない限り、いかに任命権を行使しても、ますます説得性を失うということになるのは必定です。

 この文書は、佐々木新学長の指導者としての手腕に期待し、その下での一致結束を呼びかけていますが、教職員の間にはこれを支持する動きは全く見られません。むしろ、佐々木氏自身が、過去1年間の法学部長としての行動について、とくに衛藤氏解任劇に深くかかわったことを含めて、教員の意思を聞く姿勢を示されなかったことを理由に、学長に任命されたその3月31日に法学部教員会で圧倒的多数による「不信任」を受けたという驚くべき事実があります。これは、普通の常識が通用する私立大学では考えられないような異常な事態であるといわざるをえません。

 佐々木氏は、学長として教員の意思を反映するシステムを作るべく努力したいといわれ、これは後述する理事長の発言にも出てきますが、最大の皮肉は、もしも教員の意思が現実に反映するようになれば、自らが不信任になって学長としての職を失うことになるという自己矛盾がそこに含まれているという点にあります。したがって佐々木新学長としては、教員の自主選挙に反対し、その結果を無視し、いかに教員から不信任されようとも任命権者の意向を忠実に代弁する以外にはないということにならざるをえないでしょう。法学部の多数の教員は、佐々木学部長が教員ではなく理事会の側にある人であったことをすでに感じ取ったからこそ不信任の意思表示をしたのです。

 次に、この文書は、この1年の間に、本学では所定のルールに反し、本学の名誉を損なう行為が繰り返され、学内秩序の混乱と社会的評価の低下をもたらしたとし、今後はまず秩序を回復し、本学の特色と個性を明確に打ち出さなければならないと述べています。ここにも重大な事実誤認と一方的な評価が含まれています。まず、ここ1年間の経緯をこのような形で総括することは問題であり、多数の教員が大学を良くしようとして立ち上がった行動の真意と誠実性を歪曲して描き出すものであります。事の発端は、理事会の一方的な次期学長の選任にあり、これが公選制を求める多数の教員の意思を無視したという強い不信感を呼び起こし、教授会にも全学教授会にも実質的な審議権が与えられていない状況の下で、可能なかぎり慎重に順序を踏まえた自主的な意思表示と行動が行われたのです。学内秩序は何も混乱しておらず、社会的注目を浴びましたが、評価の低下は起きてはいません。むしろ問題なのは、衛藤氏との信頼関係さえ失墜させた法人当局に対する社会的な批判であり、所定のルールといいながら、任命制のルールの下でもなすことのできたはずの教員の意思の反映のための努力もせず、文部省の行政指導を受けるという法人の独善的な対応が問われるべきでしょう。また、この間法人は、不当労働行為で地労委の改善命令を受け、労働基準監督署からも違法行為の是正を指摘され、文部省からも何項目かの行政指導を受け、さらに理事長個人に対る多くのスキャンダルが指摘されて教員から公開質問状が出されるなど、むしろ法人側の行為こそ、学内の信頼関係を失わせ、社会的評価の低下をもたらしているのではないでしょうか。これらの点について、一片の反省も謝罪もないという法人の姿勢が教職員の不信感を買っているのです。

 この文書は、本学固有の歴史の中で形成された学内規程を重要事項決定の羅針盤とし、独自の精神性から生まれた建学の精神、教育理念を具現化するという観点から、法人が現行規程を遵守し、新たな教学首脳陣を決めたのだとしていますが、これも独断と偏見に満ちた論理だといわざるをえません。そこには、現在の理事会と理事長が、歴史的な建学の精神を体現した絶対存在であるという思い上がった妄想があります。この文書も認めるように、学内規程自体も歴史的に形成されてきたものであって、最初から不変のものであったわけではなく、実は現理事長になってからの規程の「改悪」にこそ問題があることがすでに指摘されてきているのです。現に学長の選任方法も、かつては「公選制」であったことを思い起こすべきであり、現在の任命制こそが建学の精神を帯した羅針盤であるなどというのは滑稽な論理であります。今回の新しい教学首脳陣は、現在の法人の方針に忠実であるという単純な理由で選ばれたにすぎないというべきでしょう。むしろ問題なのは、わが北陸大学の歴史の中で、いつごろから現在のような「トップダウン」の方式が、独自の精神性とか私学の独自性といった装いの下に支配的となったのかという点にあり、これを事実に基づいて分析する必要があります。

 最後に、文書はとってつけたように、むろん教員の意思を学内運営に反映する努力を惜しむものではないといいつつ、しかしそれはあくまで学内規程に則り、正規の機関で議論を重ねたうえであることはいうまでもないとことわっています。この部分だけが、教員の意思を聞くという積極的な部分ですが、これもリップサービス、空手形であることは明らかです。

 なぜなら、まずこれまで教員の意思を学内運営に反映してこなかったというのなら、その理由が何だったのかが反省されてしかるべきですが、その点については何らの言及もありません。それはことの重大性が全く認識されていない証拠です。教授会にも教員会にも、全学教授会にさえ、重要事項の最たる教員の人事権を全く与えていない全くの無権利状態の中で、これらの正規の機関を主宰する学長や学部長が理事会の任命であってみれば、どこから見ても実質的に教員の意思を反映する契機が与えられるわけがないことは、すぐわかる簡単な理論です。せいぜい参考までに意見を聞き置くという程度のもので、それ以上のものを期待することはできません。なぜなら、教授会や教員会に実質的な権限を与えれば、現在のトップダウンの方式との衝突は避けられなくなるからです。

 以上から、今回の文書は、理事会が適任者として決定した新しい教学の首脳陣の下で、現行規程にしたがって、学内秩序を重んじて一致協力すべしという趣旨につきるということになります。教職員の納得と信頼の下に皆の意見を聞きながら謙虚に出発しようという姿勢も気持も一切伝わってこない「トップダウン」方式に相応しい文書だといわざるをえません。

 さて、次は理事長名で出された「声明文」と称する文章の内容であります。これは、前文とあとがきの中に、「記」と題する5項目の指摘を含んでいます。まず、前文ですが、そこでは、今回の新学長が現行の学長任用規程に則り選任されたもの

であり、これを機会に、以下のような大学運営の基本方針を定め、新学長の下で学内の諸問題の解決を図る所存なので、ご理解と大学運営と発展とにご協力いただきたいとなっています。

 これは最初に指摘したように、宛名のない奇妙な文書ですが、上述の文書によると「職員諸兄」に宛てたものということができるでしょう。それにしても、理事長として、衛藤氏の学長就任撤回に至る自己の行動とその責任を明らかにするのが、社会常識からいっても当然と考えられるにもかかからず、今回の新学長選任に至る経過については、全く黙殺されている点を問題にしなければなりません。社会問題として報道されたこの問題の真相については、衛藤氏自らが経過を公表し、元凶は理事長にあるとまでコメントされたのですから、これに対して何も答えないというのは不誠実としかいいようのない態度であります。わが北陸大学を代表する人として、恥ずかしいことではないでしょうか。雑誌に出たスキャンダルについては、相手に乗ぜられるという理由で黙殺するというコメントが出ましたが、今回は衛藤氏も同じということになるのでしょうか。この間のマスコミとの対応も、すべて中川専務が形式的に対応するだけで、最高責任者が現場の折衝にも顔を出さず、質問にも一切答えないというのでは、北陸大学の無責任体制が問われてもしかたがありません。

 次は、「記」と称する5項目の内容です。

 第1項は、本学は教職員に対して、本学の建学の精神および私学としての独自性を理解し、これに沿って教育・研究・職務に専念するよう、引き続き求めていきますというものです。

 これは、当然のことを述べているように見えますが、そこには重大な問題が含まれています。これを読んでまず感じますのは、理事長が本学をいわゆる「特別権力関係」と考えられているのではないかという点です。それは、行改上の目的達成のために与えられる包括的な支配関係を意味し、そこでは国民の権利主体性が否定されるのですが、すでにそれは絶対主義の遺物として今日の憲法の下では妥当しないものと考えられています。この過去の亡霊が、生きかえってくるようです。本学の建学の精神や私学の独自性が発揮されることはもとより大切なことであり、教育と研究にあたりこれを尊重することは当然でありますが、これは大学教職員に「求めて行く」という筋合いのものではありません。しかも、何が建学の精神であり私学の独自性であるかという点についても絶対的な基準というものであるわけではなく理事長の考えが基準となるというのでは、客観性を保障することはできません。むしろ、教育と研究は、教員自身の自覚に基づく自主的で自由な環境の下でこそ発展するものであり、そこに教育・研究の自由と大学の自治が不可欠な歴史的産物とされた所以があるのです。この第1項には、この最も大切な点が完全に欠落し、権威的な統制と管理の思想が潜んでいるように思われます。

この第1項については、私どもは逆に、本学にとってもっとも大事な出発点は、経営と教育原則的に分離することにあると主張します。教学が教員集団に実質的に委譲されたとき、めて法人との間に、佐々木氏のいう「車の両輪」という信頼関係が生まれるのであり、それが私立大学の普通の姿ではないでしょうか。

第2項は、これまで本学には営々と築いてきた学長任用規程をはじめとする諸規程があり、ルールに従って問題解決を図ることが私学の本質であるにもかかわらず、それを放棄し法その他の機関に学長選任問題等の解決を委ねることは私学の自治の放棄であり、私立の存在の自己否定につながるというものです。

しかし、これも説得的な論理とはいえません。まず、現行の学長任用規程自体が絶対的なものではなく、かつては公選制であったという歴史をもっています。そして、むしろ問題は、現行の諸規程を見直す段階に来ているのではないかと思われるのです。現行の学長任用規程という場合でも、上述しましたように、事前に教員の意思を聞くことは違法でもなんでもなく、十分にできたはずであります。理事長は、現行規程の一つの解釈を絶対視しているにすぎません。ルールにしたがった問題解決に固執される法人自体が、最近の法学部の新任人事で定年を越えた人を採用したことは、規程違反の明白な証拠であります。

ルールに従わずに司法その他の機関に問題解決を委ねることは私学の自治の放棄であるという論理は一見もっともなようですが、昨年来の学長選任問題に関しては、その手続が余りにも不当なものであるとして、学内において再考を促すようあらゆる努力をつくしたにもかかわらず、聞き入れられなかったので、やむなく文部省や裁判所に訴えたのであり、これは一種の緊急避難行為であります。普通の大学ならば学内で解決されるものが、なぜ本学ではそうならないのかは、上述した「車の両輪」になっていないからであります。それとも、大当局がいかに不当な行為をしても、解決能力のない正規の機関で満足せよということでしょうか。すでに法人自身の違法行為が、組合の提訴の結果、地労委や労働基準監督署によって明らかにされましたが、これらも私学の自治の放棄ということになるのでしょうか。むし理事長自らが、学内での自主的な解決のためにどれだけ努力されたのかという点こそ問われなければなりません。

 第3項は、今後一部職員による違法な行為が繰り返される場合には、本学の諸規程に基づき厳正に対処していく所存であるとしています。

 これは、明らかに権力的な恫喝であります。これは、自主選挙が行われようとしたときに、学長名で出され、全学教授会で採決をしてまで強行された「通知」と、その後の内容証明郵便の送達行為を思い起こさせるものであります。

 しかし、自主選挙という行為がいかなる意味で違法なのか理由づけを欠いています。学内諸規程に則っていないというだけで、直ちに違法とすることはできません。近代の民主的社会では、積極的に禁止されていない行為は違法ではないのです。しかも、それは、上述したように、やむをえない緊急避難的な行為であるだけでなく、大学の平常の業務を何ら阻害してもいません。しかもそれは、法人の一方的な学長選任行為の法的な無効を訴える上で必要な保全措置でもあったのです。

 今回の新学長・学部長の選任についても、前回と全く同様の理由によって、裁判が継続することになりますが、これまた教員の側に残された当然の権利の行使であります。なお、3月28日の和解決裂に至る法人側の対応がいかに不誠実なものであったかは、裁判所にも明らかになった事実であります。法人側が態度を変更しない限り、この裁判は続かざるをえないことになります。

 今後の教員側の行為について、法人がいかに懲戒権を匂わしても、多数の教員のと間に失われた信頼関係がそれによって復元することはなく、ますます人心は離れていくことになるばかりです。

 第4項は、今後本学は教育職員の意思を反映できるよう、学長選任その他の選考手続について、私学のあるべき姿を検討していく所存であるとなっています。

 これは一転して、教員に何らかの保障を与えるように見えますが、その表現は余りにも抽象的、理事長が一体何を考えられているのか、実体は不明というほかありません。そこで、第5項を見ますと、前項の目的のため、新学長の下、教育職員の意思を徴する場を設けることを約しますとなっています。

 以上から考えますと、どうやら教員の意思を徴する場を設けるというのが提案のようですが、これだけなら現在の教授会や教員会でも十分できるはずですから、新しい提案とはいえないでしよう。また、意思を「徴する」という表現も私学には相応しくない官僚的な色合いの濃いもので、お上が下々の意見を聞いてやるというにすぎず、むしろ逆に意思を聞いてやったという体裁だけがとられ、かえってマイナスになるおそれもあるでしよう。今のトップダウンの方式を転換するという保障がない限り、教員の意思を反映するといっても所詮トップダウン方式の一環に組み入れられるにすぎないことになります。

 したがって、第4項も第5項も、現状の変更を何ら意味しないというべきでしょう。

 最後に、あとがきがついていますが、そこでは、理事会に対して一部の教員が先鋭に対抗している中では、もとより学長・学部長選出に際して選挙制の導入はありえませんが、上記の対話を重ねることにより、双方において本学の発展を導く上での十分な信頼関係が醸成された暁には、学長選出のルールをはじめとする教学運営のあり方を十分に検討し、本学の新たなる伝統を創造していくことについて何ら躊躇するものでないことを明らかにすると結ばれています。

 この部分も意味深長でありますが、結局は、教員と理事会の対立が解消するまでは学長の公選制などあり得ないといっているにすぎず、対立が続く間は新しいルール作りの検討はしないと開き直った形になっています。これが理事長の本音ということになるのでしょう。しかし、まず理事長は大きな事実誤認を犯しています。それは、理事会に対抗しているのは一部の教職員だとしている点であり、これは公選制の導入を要望したのとほとんど同数の130人以上の教員がきびしい通告にもかかわらず自主選挙に参加したという歴史的な事実を無視するものであります。また、今回の新学長・学部長が選任されたその当日に約7割にあたる教員が各学部いっせいにこのような選任手続に反対という明確な意思を表示していることも理事長に伝わっているはずであります。それをしも、まだ一部教員と理事会との対立としか認識できないとしたら、これは問題にもなりません。

 また、上記の「対話」とは何をいうのか全く不明です。誰と誰がどこで対話するというのでしょうか。意見を徴する場がそれだというのは、言葉としても理解に苦しみます。今までの自主的な折衝過程を見ても、理事長が不在で責任の取れない代表者が相手では、対話はそもそも成立しようがないのであります。

 こちらから提案したいのは、理事長自らが教員の前に現れて、自由な討論に参加してもらいたいという点です。各学部の教授会や教員会が置かれている実情をもっと率直に眺めて、一緒に考えようとなぜ提案なさらないのでしょうか。

 最後に、130人以上の教員が学長・学部長の公選制を依然として要望し続けるという点で結束を強めているという現状を無視しては、もはや本学の将来は語れないような状況になっているという冷厳な現実と、なぜそうなったのかという理由を冷静に判断していただきたいと思います。