北陸大学の正常化を目指す教職員有志の会会報第4号(1997.7.27発行)

 

理事会は教職員の心を捉えているのか

− 平成9年7月18日付「With」の批判的分析 −

 

「北陸大学の正常化を目指す教職員有志の会」代表 法学部教授 中山 研一

一 まえがき

教職員組合や教職員有志の会による多くの情報が学内に出回る中で、法人当局の情報誌

With」がようやく夏休み前の7月18日に配付された。4月に「教学新体制」の出発を大々的に打ち上げて以来、大学としては信じがたいほどの多くの問題が未解決であるにもかかわらず、ひたすら沈黙を守り、風化を待っているかの観のあった法人が、ようやく動き出して何か新しい提案でもするのかと思ったが、その期待は今回も見事に裏切られた。その内容は、これまでの主張の繰り返しにすぎず、多くの心ある教職員の「心」を捉え動かすものとはなっていない。それは、教育の柱が人の「心」であるということをこの文書自体が述べていることとまさに裏腹の関係にある。その「心」こそが北陸大学の建学の精神であるというのであれば、現在の理事者はまず自らが建学の「心」の体現者であるかどうかを反省すべきではなかろうか。むしろ、理事会が教職員とともに、建学の精神を生かす道を探究しようではないかと率直に訴えるべきである。

 この文書の内容は、特別の論評に値しないものであるが、法人の名による正式の文書であるだけに、煩瑣をかえりみず分析を試みることによって、理事会が何を考えているかを明らかにし、率直な批判と要望を加えておきたい。

なお、この文書に対する私のコメントは、法人の考え方を正面から受け止め、これに率直な批判を加えることによって、従来の一方通行に代わるべき「対話」の方式を促進しようとする趣旨からのものであって、理事会側の反論を待って討論をさらに続行したいと考えている。それは北陸大学の現状を憂える心情から出たものであって、それ以外の私心は何もなく、大学を良くしようとする目標で一致する限りは、どこかに接点を見出し得るものと信ずるからである。

 

二 文書の体裁と性格

内容に入る前に、この文書の体裁と性格を問題にしなければならない。まず、この文書には、宛て名もなく、執筆者の署名もないという不思議なものである。発行は学校法人北陸大学となっており、編集責任者は中川幸一となっているが、誰の書いた文章なのかは不明である。また、この文書は事前に理事会で承認を得たものでもないようであり、理事長は外遊中である。こんな文書が、果して法人の正規の意思表示といえるのかも疑問であるが、このような形式も、本学にいる者にとっては「又か」と感じる程度のものになってしまった。しかし、本来から言えば、このような一片の文書による上位下達の方式は、「法学部を擁する本学においては」責任ある対応とは言い難いように思われる。私は、むしろこの文書が、全学教授会や各学部教授会・教員会で論議され、そこに理事者が出て説明し、討論の中で対話が図られて行くべきものであると考える。

 

三 文書の内容とコメント

 さて、この文書が何を語ろうとしているのかを、内容的に見て行くことにする。

1.「教育・研究の向上へ力の結集を−本学への期待に応える努力こそ重要」

 この部分は、前段と後段に分かれ、後段には「時代が求める人材育成を」という副題が冠されている。しかし、その論理を辿って行くことはかなりの忍耐を要する仕事であり、おそらく多くの教職員は最後まで読むのをあきらめてしまうであろう。具体例を示さない抽象的でもってまわった文章には、もうみんなあきあきしているのである。

 前段の文章は、これを要約すると、4月以降、学校法人は現行規程に則り学長・学部長の陣容を刷新し、新しい理事・幹事・評議員も選任して、新しい人事の下に本学の教育理念を実践し、管理運営を発展・適正化させるための新たなスタートを切ったとした上で、厳しい競争・淘汰の時代にあって大学の存在価値が問われようとしている中で、今一度大学人としての責務を考えると、それはひたすら教育・研究の質を高め、社会の負託に応える大学運営をすること以外にはないと指摘している。次に、この世に存在するものは全て依って立つ存在理由があるとし、本学の創立以来の教育の柱が人の心であって、それは相手の人格、立場を尊重し、理解する生き方に通じるもので、物から心へと移りつつある時代にあって本学はこうした教育理念をしっかり継承し、価値観の変容著しい社会で自己を確立して活躍できる人材を育成しなければならないとしている。そして、戦後アメリカの主導によりスタートしたわが国の政治・経済・教育が制度疲労に陥り、改善の難しさにあえいでいる現状からしても、精神性を失うことなく自らの歴史認識に基づき進路を定めることの重要性を痛感するというのである。

 この部分には、実に立派なことが述べられているが、今の北陸大学の多くの教職員を説得する力は全くない。なぜなら、まず4月以降の「教学新体制」が何であったのか、たしかに人は変わったが、それが「本学の教育理念をより明確に教育において実践し、管理運営を更に発展、適正化させるための新たなスタート」といえるものだったのかということ自体が問題である。法人のしたことは、衞藤氏の学長任命後の混乱から何らの教訓も引き出さないままに、教員の意思を全く聞くことなく学長・学部長を一方的に任命する一方、文部省の行政指導に直接抵触する理事等の一部の入れ替えをしただけであって、その実体は全く変わっていないことが、今やますます明らかになりつつある。多くの教職員は、決してこの苦い経験と歴史的な事実を忘れてはいないのである。

 したがって、法人が教育・研究の質の向上をいかに訴えても、教員の「心」を動かすことはできない。教員は、自主的に教育・研究の質の向上に努力すべきものであるが、それは学生の教育に真剣に奉仕し、研究者としての自覚によって行動する自律的な集団としての役割であって、北陸大学の建学の精神に則った「正常化」を目指す点においては統一できるし、またしなければならない。しかしこれを、そのときどきの法人当局の個人や集団に対する「忠誠心」と混同してはならないのである。

 むしろ、ここで問われるべきは、4月以降の教学新体制が、果して「社会の負託に応える大学運営」となっているのかどうかという点にこそある。この文書には、なぜか大学の「正常化」という文言さえ全く用いられなくなっている。今の大学運営は果して「正常化」されているのか、この点についてこそ法人は厳しい自己分析を行うべきである。自らが襟をただすという態度を示してこそ、互いの責任分担を語り得るのである。

 この世に存在するものには全て依って立つ存在理由があるという意味不明な書き出しから始まる後半の文章は、全く理解に苦しむものである。もしこれが、本学の教育理念の精神性をアメリカ主導の戦後の教育理念と対比させようとする趣旨ならば、それはおよそ学問的な検証に耐え得ない短絡的な発想であって、真面目な批判に値しない。本学の教育理念が精神主義かどうかも検討を要する点であるが、戦後の教育改革を否定するかのような考え方が案外「本音」ではないかと思うと空恐ろしい気さえするのである。

 「時代が求める人材育成を」と題された後段の文章を要約すれば、本学に在籍する学生、卒業生たちの本学に寄せる思いや、将来の受験生たちの熱い期待を思えば、今重要なことは互いを冷たく批判することではなく、置かれている立場毎にそれぞれの責務を全うすることにあるとし、本学には教員が意見を主張し、議論を交わす正規の機関があるので、この場で粘り強く考えを披瀝し合う中で、問題解決の糸口を見いだし、相互理解や信頼関係の足掛かりを見つけることができるものと確信するというのである。そして、時代の変化に対応しきれず力尽きた企業もあるように、大学も例外ではないので、時代が求める人材の育成と価値の創出に新たなエネルギーを燃焼させ、学生諸君のために心血を注ぐべく、職員全員が力を合わせれば、いかなる波濤も乗り切れるので、皆さんの理解と協力を期待するとなっている。

たしかに、大学は冬の時代を迎えており、互いに足を引っ張りあうのではなく、学生や受験生を意識してそれぞれの置かれている立場で責務を果たし、教職員全員が力を合わせる必要があることは、北陸大学のことを思う者であれば、誰しも一致して認めるところであって、いうまでもないことである。今問題なのは、そのことのために大学の不正常な状態を一日も早く改善することである。ところが、この肝心の点について、この文書は具体的なことは何一つ提案しようとしない。互いに冷たく批判することでなく、正規の機関の内部で粘り強く話し合って問題解決の糸口を見い出すべきだというのであるが、教授会や教員会の意見が全学教授会を通じて理事会に反映されるという正規のルートが完全につまっているという閉塞状況の中で、いつどこで解決の糸口を見い出せるというのであろうか。相互理解や信頼関係の足掛かりを見つけるために、問題解決の糸口を見い出すために、これまで理事会は具体的に何をしてきたというのであろうか。一方で、教職員の決定的な不信を買うような問題をいくつも起こしておきながら、そして教員の意思を全く反映しないような人物とわかりつつそのような学長・学部長を一方的に任命しておきながら、他方では、教職員全員の理解と協力を期待するというのは、誰が考えても虫がよすぎるのではないであろうか。北陸大学の「正常化」を願う教職員が、今何を悩み何を考えているのかという「心」を酌んで、共に考えようという姿勢をなぜ示されないのか、情けないというほかはない。法人が、今のような開き直りの姿勢を続ける限り、問題解決の糸口は見えてこず、鬱積した不満が爆発して、法人も恐れるような「危機」が到来するおそれがある。今はこんな形の文書で教職員の理解と協力を呼びかけるというような、全く効果もないことをしているのんきな時期ではないのである。

 

2.「管理運営を適正化し、更なる発展へ−独自性を継承し、公共性も高める努力を」

 この部分にもいくつかの点が指摘されている。しかし、これも一人の人間が書いたものとは思われないような順不同や論理の一貫性を欠く部分があって、実に読みづらい文章である。しかし、辛抱しながら読むことにしよう。

 まず、最初の段落では、行政指導が一定の行政目的を達成するために、私人または公私の団体に対して、勧告、助言、指導等の非権力的、任意的手段で働きかける行為であるが、この指導に従わなかったことを理由に不利益な取り扱いをしてはならないとするのが法的な建前であるとしつつ、先般の文部省による指導は本学が進む方向を示す指針として真摯に受け止め、私学としての独自性を継承しつつ、公共性も併せ持つ総合大学への脱皮に向けた得難い機会と考えているとされている。

 以上のような文章には、きわめて屈折した思考が潜んでおり、一見したところではその真意がつかみ難い。法的には行政指導に拘束力のないことは当たり前のことなのに、わざわざ引用するのは、あたかも従わなくても違法ではないことを匂わせる別の狙いが隠されているように思われる。それは、財務諸表の公開が行政指導として行われても従わなければならないわけではないことをいいたいためであろう。しかし、これはおろかな判断であって、財務諸表の公開は、ほかならぬ学生や父兄に対する義務であるとともに、国庫助成金を得ている限り、国や社会に対する自己点検・自己評価のための基本的な義務であるといわなければならない。わざわざ国の行政指導に従わない場合を想定したこの文章は、文部省に対する不真面目な姿勢をあらわしたものとしても重大である。

 法はさておき、先般の文部省による行政指導は真摯に受け止めるというのであるが、その場合にも、私学の独自性と公共性を併せ持つ総合大学への脱皮を図るという表現が何を意味するのかという点を問題にしなければならない。まず何よりも問題なのは、法人がそもそも今回の文部省による行政指導を何と心得ているのかという点である。これは、新聞でも「異例の行政指導」として報じられたものであって、なぜこの時期に法人が異例の行政指導を受けるようになったのかという点について、法人自身の真摯な「反省」がなければならないのが当然である。しかも、行政指導で問題とされた点とは、実はその前提として、ほかならぬ北陸大学の教職員自身が法人に対して、繰り返し質問し是正を求めてきたにもかかわらず、全く受け入れる兆しもないために、致し方なく文部省に「上申書」を提出した結果として行われたものであるという事実を忘れてはならない。法人が、文部省の指導を真摯に受け止めるというのなら、なぜ学内の教職員による質問や要望を真面目に受け止めなかったのかを反省すべきが当然である。誤りを自ら正すことは、決して権威を落とすことではなく、むしろこれを隠蔽し、理屈をつけて正当化する方が信頼関係を喪失して孤立を深めることになるのは必定である。

 「私学の独自性」の継承という言葉が何を意味するのかはっきりしないが、この点は、次の段落の文章につながっている。そこでは、本学には建学以来の様々な固有の事情があり、それが今日に至るまでの本学の気質や風土を形作っているとした上で、こうしたものの単なる否定は、本学の私学としての独自性の喪失そのものであるが、しかし継承すべきは継承し、是正すべきは是正すべきであることはいうまでもないと指摘されている。

 これも、理解に苦しむ文章である。たしかに、どの大学にも建学以来の様々な固有の事情があって、それが特有の気質や風土を作ってきたものといってよく、今日までの歴史の中で継承すべきは継承し、是正すべきは是正して動いてきたというのも事実であろう。その点では、他の私学の場合も同様である。しかし、なぜ今本学において、法人がなぜこのような当たり前のことをわざわざ強調するのであろうか。それは、法人がこの建学以来の本学の独自性を維持しようとするのに対して、批判派がこれを単純に否定し本学の私学としての独自性を喪失させようとしているという図式を描こうとしているからだと思われる。しかし、これも、実体のない観念論にすぎない。

 なぜなら、文部省の行政指導にあらわれたような「正常化」を必要とする諸点は、本学には他の私学にはない独自性があると仮定した場合でも、それには全く関わりのないレベルのものである。本学に対する異例の行政指導は、どの大学においても最低限度守られるべき基準に反し、またはその基準に達していないからこそ行われたのである。法人は、本学の私学としての独自性を主張して文部省の行政指導を免れることはできないはずである。では、教職員に対して「本学の私学としての独自性」を強調する法人の意図はどこにあるのであろうか。

 たとえば、学長・学部長の公選制の要望が教員の間に支配的となったにもかわらず、法人は現行規程が任命制であることを理由としてこれに応じず、教員の採用・昇任人事についても教授会に人事権を認めないのが現行規程であるとして現状の改革に取り組もうとしない。そしてそれが本学の私学としての独自性として説明されることがある。しかし、この論理も成り立たないのは、同じ本学においても、学内諸規程の歴史を探れば直ちに明らになるように、かつては学長・学部長は公選制であったし、教員の人事権も実質的に教授会に委ねられていたことからも明らかである。

 だとすれば、「本学の私学としての独自性」とはそもそも何なのであろうか。この文書は何も説明していないが、最後に浮かび上がってくるのは、実は北陸大学の法人の「現在の体制」の独自性が、本学の独自性とすりかえられて主張されているのではないかという疑いである。結論的にいえば、とくに平成3年を境とする法人の大学運営方法の劇的な転換こそ重要である。したがって、正常化の課題は、まずもって少なくとも平成3年以前の状態への復帰を目標としなければならないのである。

 さて、この文書はさらに、管理運営の見直し、学内協働関係の確立、監査機能の強化、諸規程の整備、事務処理体制の改善について、すでに学校法人の管理運営面を中心に整備を進めているとし、今後も建学の精神をしっかりと見つめ直した上で、魅力ある大学作りに向けて新たに出発する意気込みで、信頼関係を構築する土俵作りへの取り組みも始まっていると主張している。

 しかし、このくだりも、文部省に指摘された指導の項目を単に羅列しただけであり、目標や意気込みを示すのみで、具体的な施策の内容は何一つ見えてこない。管理運営の見直しといっても、何をどのように見直すのか不明であり、学内協働関係の確立に至っては、悪化こそすれ改善の見通しは何一つ存在しない。監査機能の強化といっても、トップダウン方式が改まらない限り、すべて尻抜けであり、財務諸表さえいっさい公開されない状況が続いている。諸規程の整備も、規程の歴史が明るみに出てはかえって困るというジレンマが存在する。事務処理体制の改善も、事務局内部の民主化が進まなければ活性化にはほど遠いように思われる。「魅力のあるキャンパス作り」を掲げるのであれば、まずは学生や教職員の意見や希望やアイディアを広く聴取し、その総意に沿うという形で、管理ではなくサービス精神に心掛けるべきである。「信頼関係を構築する土俵作りへの取り組みも始まっている」といわれるが、その取り組みがいつどこでどのような形で始まっているというのであろうか。無いものを有るというのは事実に反する作文であって、不誠実のそしりを免れない。むしろ、早急にそのような「土俵」を作ろうと具体的に提案すべきである。

 ところが、この文書は、そのために大学構成員全体が遵守すべき最低限度のルールがあるのではないかといい、学内問題はあくまで学内で解決し、軽々に外部に持ち出すべきではなく、一連の学外機関を巻き込んだ動きが、本学に期待を寄せる学外の人々の心を傷つけ、疲弊を作り出していると批判する。そして、現行規程に納得し難い部分があっても、定めに基づいて是正して行くべきで、まして法学部を擁する本学において、法と秩序を守りつつ明日に向かって前進する姿勢をとるべきはいうまでもないとし、たとえ遅々としているが如く見えても、ルールと秩序は厳守し、様々な意見を集約しながら、良き北陸大学を目指して邁進すべきであるとしている。

 この部分が、今回の文書で法人が最も言いたかったところであろうと思われるが、この部分にかえって最大の問題があり、この論理には絶対に承服できない理由を述べておかなければならない。それは、これまでも教職員の間の自主的な活動が、この論理を用いてあたかも法と秩序に反する違法な行為であるかの如く評価され、反論しても反論しても、なお同じ論理が性懲りもなく繰り返されるので、もはや我慢がならないからである。

 たしかに、学内問題はあくまで学内で解決すべきは当然のことであって、それが大学の自治に相応しいことは、いうまでもないことである。しかし、北陸大学がかかえる問題は、現実に学内問題を越えた一つの社会問題になっている。それはなぜであろうか。直截にいえば、それは学生や教職員ではなく、現在の法人当局が自ら行ってきた行為が学内からの批判を越えて、社会的に広がったからである。それは、法人自身が自らの責任でそれらの指摘された点を処理できず、処理しようとしなかったことの結果であって、これを外部に持ち出した者のせいにするのは、そもそも筋違いである。むしろ、北陸大学の教職員は、基本的に内部での解決を目指してきたのであって、法人のかたくなで威嚇的な対応こそが組合の結成を促し、教職員の権利と大学の救済という緊急避難的な発想から、法的にとり得るその他の手段まで取るに至らせたというのが事の真相である。これを、最初から一連の外部機関を巻き込んだ動きと捉えるのは、偏見以外の何ものでもなく、何よりも自分の大学の教職員の良識というものを信じようとしない根深い不信感の産物である。

 次に、学内問題が学外に持ち出されたから、本学に対する社会からの期待が傷つけられるとか、疲弊を作り出しているとかというのも、おかしな論理である。それは、持ち出された問題の性格によるのであって、法人が責任をもつべき大学運営上の不祥事であれば、社会的な批判が加えられるのは当然である。法人は、文部省の行政指導によって指摘された点について、学生や教職員に対してのみならず、社会的にも改善策を示すべき責任があるといわなければならない。この肝心のことがなされないからこそ、本学に対する期待が傷つくのであって、すべては法人の責任のとり方いかんにかかっている。われわれが教職員有志の会として、公開でシンポジウムを行うのも、北陸大学の教職員が真剣に大学の「正常化」を考え、より良き大学作りのための意思統一をはかり、これを社会に訴えるという建設的な趣旨から出たものである。

 ところが、法人は大学構成員全体が遵守すべき最低限度のルールを守るべきであるという理由によって、教職員のこのような自主的な活動を牽制し、敵視しようとしてやまない。現行規程に納得し難い部分があっても、その定めにしたがって行動するのが、法学部を擁する本学の姿勢ではないかというのである。この論理で行くと、法学部教授である私が教職員有志の会の代表として、学外で大学の正常化を考えるシンポジウムを開くなどということは、法と秩序を守りつつ前進するという姿勢に反するということになりかねない。ことがらは、法学部としての権威と名誉にかかわる重大事として聞き流すわけにはいかない問題である。

 しかし、法人のこの考え方には基本的な誤解がある。大学の運営に際して現行規程が基準となることは、法的には当然のことであって、これを否定する者は誰もいない。規程に不備があれば、これまた現行規程に基づいて改正がなされるのが通常である。学長選任規程や教授会規程についても、例外ではない。問題は、現状を改革し現行規程を改正しようとする場合の手続である。理事会は、全学教授会を中心として正常化を行うという方針から、現在全学教授会において学長選任規程の改正が論議されている。しかし、そのことは、学長選任制度をめぐる問題が、それ以外の場で論議される可能性も必要性も排除するものでは決してない。本学には教員が意見を主張し、議論を交わす正規の機関があるからという理由で、それ以外の場での論議がいっさい禁止されるべきだというのは、あきれた暴論というほかはない。法人は、教職員の自主的な活動をいっさい禁止すべきであると本当に考えているのであろうか。むしろ、正規の機関での論議は、様々な自主的な場での論議や活動に支えられてこそ、民主的に形成され、かつ自律的に統制されて行くものというべきである。法人が、「法学部を擁する本学の姿勢」を云々し、遵守すべき最低限度のルールがあるというのであれば、その内容について当の法学部の教員会において説明し、その意見を聞くべきではあるまいか。

 法人はかつて、教員による自主選挙の試みを強く批判し、学長が全学教授会を通じて警告文を発するという強権的な手段に出たことがある。それにもかかわらず自主選挙には予想以上の多数の教員が参加し、トラブルも権利侵害も何も生じなかった。それは責任ある自律的な教員集団の形成を促すものであって、このような動きを牽制したり、敵視していては、大学正常化のエネルギーは枯渇してしまうであろう。法人は、理事長批判のビラを追っ掛けてガードマンを配置したり、学内から盗聴器が出てくるといった隠微な環境から早く脱して、思い切った発想の転換を図るべきである。法は秩序を重んずることはもちろんであるが、過剰な介入は避けて自律的な秩序の形成を助けるとともに、権力の不公正な行使から人権を守るという重要な機能をもつことも忘れてはならない。大学人としての良識に反するような行動は、構成員の支持を失って淘汰されて行くであろう。

 法人は、今北陸大学の教育と研究がどのような状況に置かれているかをつぶさに観察し、法人が自らの襟をただす誠意ある姿勢さえ示すならば、魅力あるキャンパス作りのために尽力を惜しまない自主的な教職員の「心」を汲み上げることができるはずである。そうでなければ、多数の人心は法人から去って、あとは名誉欲のある少数のイエスマンしか周りには残らないであろう。

 法人は、もっと教職員を信頼して教学の責任を委ねるべきであり、そうすれば車の両輪は動き始める。それが、閉塞した状況に風穴を開ける第一歩であると信ずる。

 ただし、そのためには、法人自身がこれまでの問題を一つ一つ自主的に調査解明し、責任の所在を含めてその結果を誠実に内外に明らかにすることが必要である。この文書は、最後のところで、サウンドトラックに関して、この件については、すでに文部省に縷々説明した上で顛末書を提出し、指摘された課題への対応を終えていると記しているが、こんな中途半端な説明で十分だとはとても思えない。これで事が済んだと思ったら大間違いであって、教職員を含めた社会の目は、そんなに甘くはない。顛末書を含めて、その原因と責任の所在を明らかにし、再発防止策とともに内外に公表すべきである。太陽が丘の新しい施設計画なるものについても、利用者の意見が十分反映されるような民主的な手続を保障すべきであり、そのためにも大学の財政の公開が是非とも必要な前提である。

 

 最後に、再度法人に対して、とくに理事長に対して、軌道の修正と正常化への賢明な決断を期待したい。そうすればたちどころに北陸大学は正常化し、活性化するであろう。初代理事長の林屋亀二郎氏は、かつて北陸大学開学式式辞において、次のように述べていたことを、建学の精神として想起しておきたいと思う。

 

 「私は常に優れた教授陣容の充実をはかるとともに世に誇り得る研究施設を完備して、かつて英国の詩人が『地上にあるものの中で、大学ほど美しいものはない』と言ったことばをそのまま本学に具現したいと祈念するものであります」。

 

平成9年7月23日

* この文書は、「北陸大学の正常化を目指す教職員有志の会」の代表である私が個人の責任において急いで執筆したものです。法人当局者からはもちろん、大学教職員の皆さん方からも忌憚のないご批判やご意見を頂ければ幸いです。再考しつつさらに検討を続けて行きたいと考えています。(中山)