北陸大学の正常化を目指す教職員有志の会会報第18号(1998.2.18発行)

教職員の皆様へ

法人はいつから評論家になったのか?

1998216日付け「With」について

 

 学校法人北陸大学は、久しぶりに「With」を出したが、これが平成10年No1というから驚きである。しかも、今回は、「いい話、気になる話の つかみ取り」という呑気な紹介記事である。北陸大学の危機が叫ばれ、具体的な懸案が山積する中で、教員も職員も学年末の業務に追われているというこの時期に、何とも他人事のような評論が出るとは呆れるばかりである。

 しかし、法人が今このような形で「大学のあり方」を評論するのには、一定の明確な目的があることを認識しなければならない。そして、今や多くの教職員は、賢明にもそのことを見抜いているのである。

 それは何か。第一は、学長選任方法をめぐる問題である。今本学の教職員は、全学教授会が学長選任方法に関する意思決定をした後、理事会がいかに対処するのかを見守っている。この問題は、文部省が「理事会側と教学側との協働関係の構築」のための最も重要な課題として提起したもので、法人も「正規の機関である全学教授会で鋭意検討している」と答えてきたものである。

 しかし、学長の度重なる延引や妨害を克服してようやく「全学教授会の意思」が形成された後も、理事会の決断が早急に出される気配は見られない。このような時期に出された今回の「With」の意図は、評論の名を借りて、「教授会は学長の諮問機関である」、「学長は教授会決定の単なる執行者ではない」ということによって、まさにこの「全学教授会の意思決定」に水をさし、再び学長と理事会による「専決」に導こうとするものに他ならないことは明らかである。

 第二は、私立大学においては経営と教学の分離はあり得ないという論理を借りてきて、

教授会が学内行政にかかわるのは経営の主体性を失わせるものであって、教員は教育研究に専念せよといいたいのである。しかし、この論理は、理論的にも実際的にも破綻している。なぜなら、経営と教学が分離できないなら、相互に関わりを持つのがその帰結であって、教学が経営に干渉するなといっておきながら、経営は教学には干渉するというのは、おかしな論理である。実際にも、相互の主体性を認めた上でこそ協力関係が生まれることは自明の事柄である。

 今回引用されている「札幌国際大学理事長・学長」の一文は、本学の理事者にとっては「示唆に富む」「いい話」かもしれないが、そんな意見ならわざわざ外部に探さなくても、本学の学長や理事長の意見の中にすでに見られるのであって、決して真新しいものではない。しかも、当の札幌国際大学は「理事長・学長」の兼任という肩書の点から見ても、本学を上回る「体制」が存在していることが予測される。他の大学のことを参考にするのであれば、もっと系統的に、慎重に行われるべきものであって、都合の良いところだけの「つかみ取り」というのは、大学人としての良識が問われるであろう。

 なお、理事会が本当に「大学のあり方」について検討し、論議したいというのであれば、たとえば「本学の独自性」といった問題について、教職員に呼びかけて研究会や討論会を組織することがいつでもできるはずである。しかし、それも教員は教育に専念せよという方針と矛盾することになってしまう。つまりは、経営も教学もすべて理事者が決定したものを、教職員は文句をいわずに実行しなさいというのであろう。教職員は、主体ではなく「客体」として位置づけられるという「トップ・ダウン」方式がこれである。

 しかも重要なことは、本学の教職員が大学の正常化に関心を示すようになったのは、理事者が経営の責任を果たさず、文部省の行政指導を受けるような不祥事をしでかし、しかも全く反省することなく、正常化を進めようとしないからである。教員が教育研究に専念できるような体制こそが目標なのであって、それを保障すべき経営の責任こそが問われているのである。

 本学の最大の悲劇は、任命された現学長や学部長が教員の信任を全く得ておらず、学長と学部長の下に教員が結集するという当たり前の体制が完全に欠如し、空洞化してしまっているというところにある。学長も学部長もそのことを十分に知りながら、何らの打開策も講じることなく、名目だけの地位を維持し続けているというのは、全く常識を外れた不可解な状況である。

経営の責任者であれば、このような状況の「正常化」にこそ取り組むべきであって、時期を失すれば、教職員のみならず学生からも受験生からも愛想をつかされて、北陸丸は沈没してしまう危険がある。大学をあげての総結集をはかることが要請されているにもかかわらず、今回の「With」が他人事のような評論をするのでは、本当に憂慮すべき事態である。4月からどうして行くのか、理事者は明確な方針を早急に示し、全学的な論議を巻き起こすべきである。