(週刊金曜日 1996年12月20日号)
 
教育はこれでいいのか

北陸大学にみる文部省・大学審型「自由化」の実情

石井賢治

 
今年の6月中旬、北陸の地方誌『時局と真相』(発行・蒼生社)に北陸大学(金沢市。薬・外・法の3学部。北元喜朗理事長)についての記事が掲載され、学生、父母、教職員の間に強い衝撃を与えた。そこには、@学校法人・北陸大学の理事による職員暴行A結婚・出産する女子職員へ退職強要B女子職員への昇進差別C大学施設としての高級プールの是非D法人批判の学生の拘束E教員研究室の捜索F法人役員への巨額な退職金疑惑等の記述等の記述があった。
そこで、7月18日、まず法学部教員有志(新任教員を除く30名中21名)が連名で理事長に質問書を提出。続いて外国語学部教員有志(同40名中29名)、薬学部教員有志(同95名中70名)、昨年7月に結成された北陸大学教職員組合もそれぞれ質問書を提出した。その趣旨は、第一に、地方誌の報道は大学の名誉を傷つけている。事実でないならば、大学全体の名誉回復のために抗議等の対応をとるべきだが、それをしない理由は何か。第二に、当該記事にある、ビラをまいたという学生の拘束に関して、事実は何なのか、それに対して大学がとった態度は何だったのか、という質問である。
 
衛藤瀋吉学長の誕生
 
雑誌記事が触れた問題は、教育研究にかかわる問題である同時に、法人のありかたの根本に関する、重大な問題点を含んでいる。しかし、法人側は事実関係についての明確な回答を避けたばかりか、陰では雑誌社の次号の記事を買収しようとさえ試みたのである。このような法人側の体質、姿勢が罷り通る第一の原因は、理事会の構成に、第二は学長・学部長の選任方法にある。そして第三には一連の大学改革を背後で支える「自由化」路線をあげなくてはならない。
第一の原因から説明しよう。現在、北陸大学の理事会は10名で構成されている。「一号理事」と呼ばれる学長は理事会が指名・任命する。「二号理事」6名は全員が現理事長の部下だ。「三号理事」は学識経験者から選ぶとされているが、3名のうち1名は理事長の親、他の2名は理事長と関係ある者である。幹事2名もまた理事長の関係者であり、理事会をチャックする機能が働きにくいのが現状である。
第二は学長・学部長選任問題だ。教学側は学長選などに教員や学生の意思が反映するようにと、一昨年2月23日、教員136名の署名(8割を超える)を添えて、公選制を求める署名を理事長に提出し、法人側は「教学意思の反映するシステムを構築する」と約束した。
ところが突如9月9日、一片の学内通知で「理事会は新学長に衛藤瀋吉氏を決定」と公表した。教学側は11日、「公選制を求める有志世話人」名で理事会決定の白紙撤回を求める声明を発表した。亜細亜大学学長時代に「一芸一能」入試で知られた衛藤氏の、人格・学識・教育への熱意を問題にしているわけではない。学長公選を許さない理事会の体質や、決定のプロセスを改めよと主張したのである。
これに対し法人側の説明はこうだ。@学長は理事となるものだから教職員人事ではなく、理事の人事として理事会が決定権をもつ。A選任に教職員の意見を聞く学校法人でも、ほとんどの最終決定は理事会が行う(法人のPR紙『ウィズ』)。
ここには重大な論理のすりかえがある。私立学校法が、学長を理事とすることを定めている趣旨は、学長が「教学側の代表者」であるからであり、教学側の代表者たる学長を、教職員ではない理事会が選ぶことは趣旨がまったく逆だ。また、学長選任に教員の意思を聞くことと、最終決定権の所在とは別問題である。教学側は、「最終決定も教学側で」、と主張したことは一度もない。あくまで、選任のプロセスに教学側の意思を反映させたい、と願っているだけである。
こうした北陸大学の教学側の主張を裏付ける判決が、昨年、東京多摩の明星大学における「教授会抜き新学長選任」に対して出されている。同大学では、「教授会を通さずに学長を選ぶシステムは違法」と、教授ら20名が新学長選任の無効を主張して地裁に提訴した。東京地裁八王子支部は、「学長の選任に関する教授会の審議権を奪っており、学校教育法違反」と認定し、「理事会での学長選任決議は無効とした」(『朝日新聞』95年6月29日)のである。
北陸大学法人側は、新学長選任は「大学のルール」に基づいていると説明する。だが、法人のいう「ルール」とは、「学校法人・北陸大学のルール」ではあっても、「北陸大学のルール」ではなく、ましてや「日本の大学に普遍的なルール」でもない。単に法人側に都合のよい大学の組織・運営のシステムを「ルール」と呼んでいるにすぎない。
 
教員任期制の落とし穴
 
第三に理事会の一人歩きを許している北陸大のエセ「自由化」路線にふれよう。北陸大教職員組合は今年10月30日、県地方労働委員会に不当労働行為の救済申立書を提出した。その中に、給与等の交渉をスタートラインにつけるための財務諸表の提示が含まれているが、法人側は7回の小委員会、4回の団体交渉を経てなお提出を拒んでいる。もう1つは、法人側が「実績と高い能力を評価」しているという人間を、業務内容が不明確な1人の部下もいない部署へ配置転換したことだ。評価通りならば、このような人事をする必要はない。
10月29日、文部大臣の諮問機関である大学審議会は「国公私立大学すべての教員に任期制を設けることができる」と、任期制の導入を答申した。その際、まず問題なのは業績の評価だが、北陸大学で見られるように、人事考課・経理等が不透明で、公表が拒まれている大学では、理事会による一方的な評価になる危険性がある。さらに、たとえ評価が公正であっても、その評価が、待遇・処遇と異なっていては、任期制は経営側にとって、不都合な人間の排除方法にしかならない。
教員の任期制は、集団主義を優先する日本企業にとって、一丸とならない人間の排除に好適な制度なのだ。北陸大学の場合で言えば、任期制は差別と選別の機能しか果たさない。
 
「規制緩和」と「自己点検」
 
世の中の少子化現象が進む中で、私立大学はいずれも経営不安を抱えている。そうした私立大学をとりまく状況を、北陸大学をケーススタディとしてみておきたい。
臨教審の答申に基づいて設置された大学審議会(前出)は91年、大学教育のあり方について答申を行った。その核心は、@個々の大学が自己評価システムを整備し、その上でA大学設置基準(短大・大学院も含む)の大幅緩和、カリキュラム編成の自由化等、大学改革の促進が提言された。これを受けて、91年7月、文部省の省令「大学設置基準」が施行され、大学は「教育研究活動等の状況について自ら点検・評価を行うことに努めなければならない」とうたわれている。あえて新制度の考案者の意図を汲めば、「自由化、弾力化は大いにしなさい。しかし、それは常に自己点検・評価と表裏一体のものですよ」となるであろう。すなわち、点検・評価は、教育課程編成の自由化に対する歯止めの役割を担うはずだった。しかし、自己点検・評価の項目と対象は、各大学の独自の判断に任されている。
 
北陸大学だけの問題ではない
 
学校法人・北陸大学は、法人主体の「教育研究充実向上特別委員会」を設置し、大学改革に着手した。カリキュラム改正等教育システムの改革、シラバス(講義概要・予定の詳しい説明書)作成、授業評価(学生によるアンケート、薬学部卒業生への卒後教育、留学生への特別授業、公開講座等々。いずれも一方的な法人側の意図の押しつけだったにもかかわらず、教員側は改革本来の意義を考え、これへの協力を重ねてきた。
しかし、前述したように、法人側の対応は、不誠実きわまりない。おそらく、こういうケースは、北陸大学だけのことではないだろう。その意味では、文部省=大学審の「自由化」路線によって、教育現場がどうねじ曲げられているのか、ある種のひな形ともいえるのだ。
最後にひとつの提案をしたい。1962年に時限立法として制定された「学校法人紛争の調停等に関する法律」は文部省に法人役員の解職権限を持たせた。民主的な大学運営を自立的に行なえない学校法人をも含めて、一律に自由化する方針は弊害が多い。そういう大学にはむしろ規制を強め、たとえば、同法の再認識、あるいは大学の構成員による理事のリコール制度等を検討すべき時にきているのではないだろうか。
 
いしい けんじ・フリーライター